いのちのいずみ Ⅱ 〈月曜日の福音〉

イエス・キリストの福音を伝えます

待降節第2月曜日(2020.12.7.)「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」

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 誰もが友達を持っていると思いますが、「友達」といってもいろいろな関係があるでしょう。お互いに理解し合う人であったり、助け合う人であったり、自分の話が通じる人であったり、同じグループの仲間であったり、親しみを感じる人であったり……聖書には「友はどのような時でも愛してくれる。/兄弟は苦難の時のために生まれる。」(箴言17:17〈聖書協会共同訳〉)とあります。本当の友達は、すぐにとけてしまう雪のような一時的なものではなく、困った時にこそ近くにいて助けてくれるような人のことなのでしょう。「助けて」と言わなくても、手をさしのべて支えたり助けたりしてくれる人。困難にある友達から離れることなく、困難を乗り越えるために自分の時間や力やアイデアやお金などを喜んで提供できる人。今日の福音書の四人のように、病気の友達がよくなるためには、どんなことでもする人が本当の友達だと思います。

 困難にある人をイエス様の所に連れて行き、イエス様にすべてをゆだねたこの四人は、素晴らしい友達です。私にとって本当の友達は「イエス様の所に連れて行ってくれる人」ではないかと思っています。しかし、私の知っている多くのキリスト者は、自分の友達をイエス様の所に連れて行っていないように感じます。どうしてでしょうか。イエス様と共に生きているキリスト者は、なぜ自分の宝物を他の人と分かち合うことをしないのでしょうか。あなたには、あなたをイエス様の所に連れて行ってくれる本当の友達がいますか。あるいは、あなたは友達をイエス様の所に連れて行くようにしているでしょうか。

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ルカによる福音書5・17〜26

   ある日のこと、イエスが教えておられると、ファリサイ派の人々と律法の教師たちがそこに座っていた。この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来たのである。主の力が働いて、イエスは病気をいやしておられた。すると、男たちが中風を患っている人を床に乗せて運んで来て、家の中に入れてイエスの前に置こうとした。しかし、群衆に阻まれて、運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。エスはその人たちの信仰を見て、「人よ、あなたの罪は赦された」と言われた。ところが、律法学者たちやファリサイ派の人々はあれこれと考え始めた。「神を冒涜するこの男は何者だ。ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」エスは、彼らの考えを知って、お答えになった。「何を心の中で考えているのか。『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った。人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。

聖アンデレ使徒〈祝〉(2020.11.30.)「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」

 

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 家族や仕事が自分の命を支えてくれる大切なものと思っている青年も、恋人ができれば、それまでの家族や仕事よりも恋人が大切になります。私達は誰のために、何のために生きているのでしょうか?

 今日の福音に出てくる4人の青年はみな漁師でしたが、仕事の道具である舟や網よりも、自分の父親よりも、イエス様が大切だと判断し、イエス様についていくことを選びました。仕事の道具を捨て、父親をおいてイエス様に従おうとした弟子たちは、自分の生きる土台を積極的にイエス様の福音に求めました。イエス様に従っても従わなくてもたいして変わりがないだろうと思っている人は、やはりイエス様の福音をまだ理解していないのでしょう。

 イエス様との出会いは、その人の内面的な価値観だけではなく、人生そのものも変えてしまいます。まだ何も変わっていないという人は、もしかしたらまだイエス様と本当に出会っていないのかもしれません。

 聖書の中で神の声を聞いた人間を思い浮かべてください。アブラハムモーセ、サムエル、ヨセフ、マリアなど、みんな大きく人生が変わりました。神の国を実現するため、神に協力する生き方を選び、精神的にも外面的にも、それまでとは大きく変わったのです。

 あなたがまだ洗礼を受けていないのであれば、神の声に耳をふさぎ、イエス様の招きを無視することができるかもしれません。しかし、洗礼を受けた人ははたしてそのようなことができるでしょうか? 洗礼を受けたひとりひとりの人は、積極的にイエス様に従い、つねにイエス様と共に生きるという使命をいただいているのです。

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マタイによる福音書4・18〜22

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

年間第34月曜日(2020.11.23.)「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」

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 神様は、私達人間の常識とは全く違うまなざしで、この世界を見ています。普通、献金の額は多ければ多いほどいいはずですが、イエス様はレプトン銅貨2枚というほんのわずかな献金を喜びました。レプトン銅貨2枚は、今の日本円にすると100円ちょっとです。私達はまず献金の額に目が行きますが、イエス様は貧しいやもめがどのような心でお金を賽銭箱に入れたかということだけを見ていました。福音はつねに、私達の価値観をひっくり返します。

 もしかしたら、お金の価値を理解していない幼い子どもたちは、イエス様と同じ価値観をもつことができるかもしれません。子どもたちはしばしば本能的に、目に見えない命やそこにこめられた心を大切にすることがあるからです。

 私達が地上で所有する物はすべて天の御父からいただいたものであり、やもめは感謝してすべてを神様にささげます。それはとても少ない金額でしたが、自分に必要な生活費だったからこそ、価値があります。有り余る財産の中からほんの少しを出しても、神は喜ばないでしょう。ささげる人の心だけが本当のささげものであり、そこに感謝の心がなければ献金をしても意味がないといえます。

 お金の背景にどのような人間の生活や心があるのか、私達人間にはなかなかわかりません。しかし、イエス様はその人の生活や心を見つめ、心にとめ、すべてをわかっています。イエス様の弟子である私達は、同じような価値観を持つようにつとめているでしょうか。深く考えずに世間的なお金の使い方をしている私達は、この福音をまだ本当に理解できていないのかもしれません。

 

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 ルカによる福音書21・1~4

 そのとき、イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」

 

年間第33月曜日(2020.11.16.)「主よ、目が見えるようになりたいのです」

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 困っている人、助けを求めている人がいたら、自分の手を差しのべて何とかして助けてあげたいと思うことがあります。しかし、自分では助けているつもりが、その人にとっては邪魔になったり妨げになったりすることもあります。他者を助けたり手伝ったりするには、その人の状況をよく理解して、細かい配慮をする必要があります。自分の思いつきで適当なことをすれば、かえってその人を困らせてしまうことになるでしょう。相手は何を求めているのか、自分に何ができるのか、行動する前によく考える必要があります。

 イエス様のことを知らない人に福音を伝えることは、簡単ではありません。もしかしたら、イエス様に関心のある人に対しても、難しいことであるかもしれません。イエス様に出会いたいと願っている人に対して、神父や信者がそれを妨げてしまうことも時にはあるでしょう。たとえば、イエス様のことを何も知らずに初めて教会に来た人がどうすればイエス様と出会うことができるのか、適切な答えはその場ですぐには出ないかもしれません。

 今日の福音では、道端に座っていた盲人がイエス様に出会いたかったのに、「先に行く人々」が叱りつけて黙らせようとした場面がえがかれています。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と自分の信仰をはっきりと宣言する盲人の言葉は、その場にいた人たちによってさえぎられそうになりました。しかしイエス様が立ち止まって命じたことにより、その場にいた人達がとったのとは正反対の行動……イエス様のもとへ盲人を連れてくるという適切な行動をとった人がいました。イエス様は盲人にはっきりと「何をしてほしいのか。」とたずね、盲人もはっきりと「主よ、目が見えるようになりたいのです」と答えました。

 イエス様を探している人に対して、すでにイエス様を知っている私達は何ができるでしょうか。妨げとなることがないように、つまずきとなることがないように、愛を持ってその人をイエス様のところへまっすぐに連れて行くことができますように。

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ルカによる福音書18・35〜43

 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。エスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。

ラテラン教会の献堂(祝)(2020.11.8.)「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

 

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 天の御父が日々造り出している素晴らしいこの世界を、私達人間はすぐに崩壊するバベルの塔に変えてしまおうとしています。神と心を合わせて生きることよりも、利益や自分が得することを求め、自分勝手に行動してしまう私達の現実があるのです。つねに自分中心で利益になることばかり探している人間は、神様が創造されたこの地球上のあらゆるものを、科学技術によって商売の道具として利用しようとしています。

 地球上の資源を手荒く使い捨てる消費文化が、山のようなゴミを生み出しています。神はこの世界を創造されましたが、ゴミは作っていません。私達人間が、大量のゴミを生み出しているのです。さらにもっと悪いことがあります。私達人間は、ときに他の人間を使い捨てにし、ゴミのように扱ってしまうことさえあるのです。宗教においてさえ、自分の利益のために他者を利用しようとする人達がいます。私達が生きている地球そのものが素晴らしい神殿であり、ここですべての人は神の子として互いに愛し合って生きるべきなのに、自分のわがままやこだわりによって、神との関係から離れてしまう人が何と多いことでしょう。素晴らしい神殿に生きることをやめて神との関係を絶ってしまった人は、「ゲヘナ」と呼ばれたエルサレムのゴミ捨て場で生きているのと同じです。そこは悪臭に満ちた、永遠の滅びの場所です。

 エルサレムの神殿は破壊され、現在はそのことを嘆く「嘆きの壁」しか残っていません。素晴らしい神殿としてのこの地球が同じように破壊されてしまうことがないように、私達の世界を清め、救ってください。この地球をノアの箱船に変えてください。イエス様早く来てください。あなたの神殿であるこの地球に生きる人類を回心させてください。すべての人が神の子であり、世界中の人が神の家族として平和のうちに幸せに生きることができますように。私達ひとりひとりが、自分の生活をどのように変えればいいのか、教えてください。

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ヨハネによる福音書2・13〜22

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。エスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。エスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。エスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。エスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

死者の日(2020.11.1.)「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」

 

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 社会全体が高齢化し、家族や自分のお墓について心配する人が増えているようです。葬儀やお墓について心配しなくても大丈夫です、と私はみなさんに言いたいです。神様から永遠の命をいただいていることを考えれば、死は一つの通過点に過ぎません。私達が信じているのは、死でもなく墓でもありません。カトリック信者は、ミサのたびに使徒信条で「天地の創造主、全能の父である神を信じます」ととなえています。私達は神様から愛され、イエス様の救い、恵み、復活、永遠の命をいただいているのですから、死や葬式や墓についてくよくよと考える必要はないのです。

 今日の福音には「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエス様の言葉あります。イエス様は御自身の受難と死の後、墓に葬られて陰府にくだりましたが、イスタンブールのコーラ修道院聖堂内のイコン「主の復活」に描かれているように、すべての男性(アダム)とすべての女性(イブ)の手首を握って墓から引っ張り出しました。イエス様は死を滅ぼし、すべての人類を死から解放したのです。墓の中の世界はイエス様の足元に踏みつけられ、死の暗闇は福音の光で満たされています。亡くなった人はすべて神の国に導かれ、もはや死の世界は空っぽです。すべての人がイエス様に手首を掴まれて、神の国へ連れて行かれるのです。

 何を信じるかということは、何を土台にして生きていくかということではないでしょうか。私は確かなものを土台にして生きたいのです。信仰宣言では「信じる」という動詞が4回使われており、何を信じるかといえば、「天地の創造主、全能の父である神」「父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリスト」「聖霊」「聖なる普遍の教会」「罪のゆるし」「からだの復活」「永遠のいのち」です。これらはすべて、キリスト者である私達の土台となるものです。私達は死や墓を土台にして生きるのではありません。さらにいえば、お金、名誉、偽りの世界、むなしいこと、不幸、偶然、意味のないことも、生きる土台として価値あるものではありませんし、確かなものでもないのです。ですから、これらを土台にして生きることはできません。

 神様が天地を創造された後、あらためて世界全体を御覧になり、「見よ、それは極めて良かった」とおっしゃったように、私達は人間らしく良いものとして生きるよう、イエス様から招かれています。死ぬためではありません。

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ヨハネによる福音書  6:37-40

 そのとき、イエスは人々に言われた。「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

年間第29月曜日(2020.10.26)「女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した」

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 背中が深く曲った小さいおばあさんが、畑でうつむいて一生懸命に農作業をしている姿を、日本に来てから何度か見たことがあります。家族の命を支えるために、女性が自分の体や時間を犠牲にしていることを感じます。昔も今も、社会や家庭の中で負担が大きいのは女性ではないでしょうか。人類の歴史をひっぱっているのは女性と神様で、男性は隙があればお互いに争って戦争につながるようなことばかりしているのかもしれません。神様は、女性がうつむいて腰を曲げて働くばかりでなく、社会の中でもっと輝いて生きることを望んでいますが、人間の社会はまだそれを許していないようです。

   旧約聖書の「ルツ記」には、ルツという名前のモアブ人の若い女性が登場します。ルツは夫に死なれた後、生きていくために畑で深く腰をかがめて落ち穂拾いをして、姑との貧しい生活を支えました。謙虚で賢いルツは、畑の所有者であるボアズの目にとまり、愛を見つけ、結婚して自分の幸せを手に入れました。「ルツ」はヘブライ語で「友、友情」の意味ですが、外国人だったルツがイスラエル人の慣習に従って結婚し、ルツが生んだ息子はイスラエルの王ダビデの祖父となって、救い主イエスの家系につながっています。

 ルツという女性の姿は、今の時代のテレビやインターネットの広告に出てくるような女性のイメージとはだいぶ違うようです。同じような流行の服や化粧でいつも笑ってばかりの若く美しい女性は、広告のために作り上げられたイメージに過ぎず、中身がともなわない人形のような可哀想なものなのかもしれません。

 今日の福音でイエス様は、かがんだままで体を伸ばすことの全くできない女性の体をまっすぐにしました。私達も、女性に対する曲ったイメージを正すべきではないでしょうか。それは、単に男性と同じようになるべきというのではなく、ひとりひとりの女性が本来持っているまっすぐな姿勢を取り戻すことです。男性にないものをもっている女性には、男性にはできないことができます。

 イエス様は、今もすべての女性に「婦人よ、病気は治った」と告げたいと思っているでしょう。本来のまっすぐの姿勢で女性が生きる姿を見たいのです。男性も女性も同じように神の子であり、その人間性も権威も価値も同じです。

 新型コロナウイルスの流行により、自殺や離婚、DVが増えており、特に女性が困難に直面しているというニュースを聞くようになりました。男性は女性に対する愛が足りず、女性がすることを理解していないことが多いように思います。今日の福音にあるように、男性が社会のしきたりばかりを重んじているいっぽうで、女性は神様と同じように命を一番大切にしているのではないでしょうか。もしかしたら、イエス様だけが女性の尊厳を理解しているのかもしれません。

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ルカによる福音書13・10〜17


 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。
そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。エスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。ところが会堂長は、イエス安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。