いのちのいずみ Ⅱ

南宮崎カトリック教会の主日のミサの説教を掲載します

A年主の降誕(夜半) (2016.12.24.)

A年主の降誕(夜半) ルカによる福音書2:1~14

つねに上へ上へと向かおうとする人間の上昇志向をすべて引っくり返すというのが、クリスマスの本当の意味です。神様御自身が、ひとりの人間となって地上に降りてきてくださったということだからです。

 クリスマスおめでとうございます。世界中の人たちに、同じ言葉を伝えたいと思います。世界中のキリスト教の教会で、イエス様の誕生を祝う同じことばが交わされていることでしょう。

 クリスマスの意味について、簡単にお話しします。
 人間には、上へ上へと向かって生きようという上昇志向があります。そのもっとも古いケースは「創世記」にみられ、神と同じようになりたいと願う、人間の欲望がえがかれています。天の高いところに神様が存在すると思っている人は、できるだけ高いところへのぼり、そこに近づきたいと思います。特に権力者たちは、他の人たちよりも少しでも上に立って人々を支配したいという欲望が大きいのです。さらに、権力を握ることによって、自分だけが上に行きたいという考え、自分だけが神様の近くへ行き、ついには自分自身が神となりたいという考えを持つ人もいます。「宗教家」と呼ばれるような人にも、同じような傾向があるかもしれません。祈りや修行を通して自分を高め、できるだけ神様に近づこうとするからです。

 このように、つねに上へ上へと向かおうとする人間の上昇志向をすべて引っくり返すというのが、クリスマスの本当の意味です。神様御自身が、ひとりの人間となって地上に降りてきてくださったということだからです。神様御自身が天から降りてきて、私たち人間と一緒に生きるようになったというメッセージが、私たちに伝えられているのです。それはつまり、神様と人間との関係は、イエス・キリストの誕生によって大きく変わったとうことです。権力者は、上に立って他の人たちを支配することによって自分が輝かしい者になると思っています。しかし実際には、権力を握ることによってエゴイズムが増大し、その人の人間らしさは失われていくような気がします。同様に、「宗教家」が神様のために特別なことをしたり、他の人々を遠ざけて自分だけが神様に近づこうとしたりすれば、神様も遠ざけることになってしまうのです。

 クリスマスは、私たちに何を教えてくれているのでしょうか。私たちは、神様のところへ上がっていこうという上昇志向を持つ必要はないということです。神様御自身が降りてきて、ひとりの人間となってくださったからです。しかも、貧しくて小さな赤ちゃんの姿で来てくださったのです。ですから私たちは、強いて神様を探したり近づこうとしたりするよりも、自分の生活の中で、また人生の中で神様を受け入れることができるように、心を開くということが一番大切なことになります。イエス様がこの世に生まれたことによって、神様は苦しんでいる人類に近づき、私たちのところに来て、人間の間に住むようになりました。イエス様は私たちに、神様の子どもとしての姿を明らかにしてくださいました。それは、人々を支え、人々に希望を示し、人々のために尽くすという、神様が望む人間らしさです。

 クリスマスの意味は、神様は私たち人間の間に生きているということです。私たち人間は、心を開き、愛をもって神様を受け入れ、神様と同じ愛をもって、他の人に近づいて奉仕するように招かれています。これが、クリスマスのメッセージです。
 神様は、私たちひとりひとりの内に、神様が望んでいらっしゃるように生きようとする人間らしさをそなえてくださいました。これを豊かに活かすことによって、私たちは神とともに、神の子どもとして、愛を生きることができるのです。

C年年間第33主日(2016.11.13.)

C年年間第33主日 ルカによる福音書21:5~19

神様が望んでいる世界が来る時、私たちが当たり前だと思っているこれまでの生活や生き方、常識などはすべて滅びてしまうのです。

 今日の福音は理解するのが難しく、朗読を聞いてすぐに「ああそうか、わかった」と感じることはできないのではないでしょうか。説明なしで今日の話を聞けば、恐怖を感じるだけだと思います。今日の福音を理解するためには、歴史的な背景を知ることが大切です。

 まず前提として、紀元前701年にアッシリアの絶頂期の王であったセンナケリブが、ユダの46の街を滅ぼした後に遠征し、エルサレムを包囲したという歴史的な事実があります。アッシリア軍は、翌日にはエルサレムに攻め入ろうというところまで来ていましたが、実際にはエルサレムを陥落させることなく撤退しています。撤退の理由として旧約聖書には、アッシリア軍が神の御使いによって討たれたためとあります。それは疫病の発生など、何らかの危機的な状況が発生して、撤退を余儀なくされたということでしょう。一方、センナケリブが書かせたアッシリア側の歴史を読むと、ユダ王国の王であったヒゼキアが、アッシリアの王に莫大な金銀を渡して帰らせたと書いてあります。[列王記下18~19、歴代誌下32、イザヤ36]

 実際に何が起きたのか、私たちは知ることができません。しかし、前日までエルサレムを包囲していた軍隊が翌日にはいなくなっていたというこの時から、どのような深刻な危機に直面しても神様は必ず助けてくださるというイスラエル民族の考え方が生まれました。これは、絶望的な状況でも神に信頼を置き、信仰を持ち続けるということです。

 イエス様が生きた時代のユダヤの人々はローマ帝国の圧政に苦しんでいましたが、やはり同じように、神様がいつか必ず苦しい状況から救ってくださるという信仰を持ち続けていました。その信仰の象徴として、神の家として、エルサレムには素晴らしい神殿が存在していたのです。しかしイエス様は、この素晴らしい神殿を「強盗の巣」であるとして清めました。神殿の境内で商売をしていた人々を追い出し、本来は祈りの場であるべき神殿が商売をする所になってしまっていることを指摘しました。[ルカ19:45~46]

 また、今日の福音のすぐ前のページには、やもめの献金の話が書かれています[ルカ21:1~4]。貧しいやもめが、生活費のすべてを献金として箱に入れたのを見たイエス様は、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と言っています。本来、宗教やその象徴としての神殿は、やもめのように弱い立場の人を支えるためにあるはずです。しかし、貧しい人の献金によって神殿を維持したり宗教を成り立たせたりするということになっているならば、本末転倒です。

 このように、神殿や宗教が本来あるべき姿から遠く離れてしまったことをふまえ、イエス様は今日の福音で「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」[ルカ21:6]
エルサレムの神殿崩壊の予告をしています。神様の心にかなうことが行われることのない神殿は必ず滅びる、むしろ滅んだほうがいいのだという強いメッセージです。

わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」とか「時が近づいた」とか言うが、ついて行ってはならない。[ルカ21:8]

 歴史的な事実として、イエス様の後の時代に、ユダヤ人のメシアを自称したバル・コクバという人物が現れました。ユダヤ人のラビたちの信頼を集め、ローマ帝国に対する反乱を起こしましたが、ローマ帝国との大きな戦争となってエルサレムは陥落、バル・コクバも戦死して、その後はユダヤ人から信頼されることはありませんでした。

 イエス様は、惑わされないように気をつけなさい[ルカ21:8]と言い、メシアを自称する者が「わたしがそれだ」「時が近づいた」と言っても、救い主は神様だけであることを伝えています。神様はイスラエル民族を必ず助けてくださるという信仰は、センナケリブエルサレム包囲の時から続いていましたが、それは、ユダヤの国を今よりも大きくするとか、ローマ帝国から守るとか、一つの国家の利益を守るために助けてくださるということではないということを、イエス様は言っているのです。

民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。[ルカ21:10~11]

 これは大きな社会の変化を表す表現で、預言者たちが使う言葉です。神様の新しい世界が来る時に、今ある世界がそのまま続くのではなく、滅びなければならないということです。神様が望んでいる世界が来る時、私たちが当たり前だと思っているこれまでの生活や生き方、常識などはすべて滅びてしまうのです。

 これは、人々を怖がらせるための話ではありません。古い世界が滅び、神様が望んでいらっしゃる新しくて素晴らしい世界が現れる時には、はっきりとしたしるしが現れるのだという、希望を表す言葉です。ルカは、トルコ、シリア、イスラエルなどにあった、自分の教会の人々のためにこの福音を書いています。当時、迫害されていた信者たちの小さなグループを勇気づけ、逆境の中でも希望を失わないように励ますための言葉として、ルカは書いているのです。
 神様は、歴史の中で御自分の計画をどんどん進めています。このプロセスの中に私たち信者も巻き込まれて行くので、私たちにとっても苦しいことがあるのは当然なのです。

しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。[ルカ21:12~15]

 この部分は、キリスト教における最初の殉教者となった聖ステファノが逮捕され、説教をして殉教したことを思わせます[使徒6:8~7:60]。ステファノは、逮捕されて最高法院に連れて行かれた時、大祭司をはじめとする人々の前で、イスラエルの歴史について話しながら、神殿ばかりを大切にするユダヤ教を批判しました。本当の神殿は建物ではなく神様のいるところであるということ、神の子であるイエス様こそが本当の神殿であるということ、私達ひとりひとりも、イエス様と同じように生きればそこに神様が宿るのだということを、ステファノは堂々と話し、石で打たれて殉教しました。

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。[ルカ21:18~19]

 これは、神様の確かな配慮と守りを約束する、希望の言葉です。世の中の大きな変化があっても、恐怖にかられたり落ち込んだりせず、顔を上げて神様の国が来るのを積極的な気持ちで待ちなさい、そして新しい神の国を作るために協力しなさいということです。

 今日は歴史的なことをいろいろお話ししましたが、これは単に昔あったことというだけではなく、今を生きる私たちのための話でもあります。歴史的な背景をよく理解してこの福音を読めば、これは私たちに勇気と希望をあたえてくれる内容なのです。

C年年間第25主日(2016.9.18.)

C年年間第25主日 ルカによる福音書16:1~13

一時的な利益や目の前の物事だけではなく、将来のこと、肉体の死の後のこと、そして永遠に目を向けて、考える必要があります。

 今日の福音朗読は、私たちの生活を支えているお金や財産をどのように使うべきかという話です。今日のたとえ話には、主人は不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた[ルカ16:8]と書かれています。これを文字通りに受けとれば、みなさんは驚き、また違和感をおぼえるでしょう。なぜ、不正な人がほめられるのでしょうか。誤解をまねきやすい表現なので、このたとえ話でイエス様が言おうとしていることをきちんと理解する必要があります。イエス様は、この管理人がしているような、証文の書き直しや不正を勧めているわけではありません。管理人の鋭い判断と機敏な行動には、ほめられるべき賢さがあるということです。

 たとえば、私が以前聞いた話ですが、指一本ほどの小さな折りたたみナイフを使って、刑務所から脱走した人がいるそうです。もちろん、刑務所から脱走すること自体は良いことではありませんが、折りたたみナイフ一本でそれを実現したことについては、その方法を思いついた賢さをほめるしかないように思います。今日の福音を読むと、私はこの話を思い出すのです。イエス様も、同じようなことを言っているような気がします。くわしく読んでみましょう。

ある金持ちに一人の管理人がいた。[ルカ16:1]

 「管理」という言葉は、福音書にたびたび出てきます。たとえば、ルカ福音書の別の場面では、忠実で賢い管理人[ルカ12:42]が登場します。今日の福音に登場するのは、頭の切れる賢い管理人です。この管理人は主人の財産を無駄遣いしていることがばれてしまい、主人から呼びつけられて言われます。

「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」[ルカ16:2]

 自分の不正がばれてしまったこの管理人は、管理の仕事をやめさせられる前に、さらに不正を重ねて自分の財産を少しでも増やしておこうとはしませんでした。彼は頭を切り替えて、まったく逆のことをしたのです。当時の管理人は、主人と借りのある人の間に立ってお金の管理をすることで、主人からも借りのある人からも手数料をとり、自分のもうけにしていました。当時の徴税人と同じようなことをしていたのです。
 しかしこの管理人は、主人に借りのあるものを呼んで、これまでの証文の書き直しをさせます。「油百パトス」は「五十パトス」に、「小麦百コロス」は「八十コロス」に書き直させ、自分の取り分をなくしたのです。一見、主人の財産はそのままで、間に立つ管理人が損をするようにみえますが、そうではないのです。借りを減らしてもらった人々は喜び、ここまで借りを減らしてくれた管理人の友達となるからです。目の前の利益よりも将来のことを視野に入れ、仕事がなくなったときに自分を家に迎えてくれるような友達を作ろうとしたのが、この管理人の抜け目のないやり方[ルカ16:8]でした。イエス様は、これをほめているのです。

 では、今日の福音を私たちの生活にあてはめて考えてみましょう。私たちも、日々の暮らしの中では、目の前の利益や目に見える具体的な物事を優先させがちです。しかし、私たちの社会で「富」といわれているこれらのものを取り上げられることになったときに困らないように、今持っている「富」を惜しまずに使うべきだということです。今の世の中で私たちが持っている財産やお金、家や電化製品などは永遠のものではなく、いつかは取り上げられる一時的なものです。では、この管理人のように、それらがいよいよ取り上げられることになった時、私たちはどうすればいいのでしょうか。お金や物がなくても、その時に自分を大事にしてくれる友達がたくさんいればいいのです。自分の財産をひとりじめするのではなく、人のために使えば、さらに富が増えなくても友達は増えます。その人たちはあなたの味方となり、あなたの自分の家に迎え入れて世話をしてくれるでしょう。
 この管理人は、自分の富にこだわることなく、すぐに頭の切り替えができる人でした。目の前の一時的なことだけではなく、将来、自分にとって何が本当に必要なのか、考えて実行することができたのです。私たちも、日々の生活の中で同じようにするよう、イエス様から招かれています。

不正にまみれた富で友達を作りなさい。[ルカ16:9]

不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたに本当に価値あるものを任せるだろうか。[ルカ16:11]

 今日の福音には、「不正にまみれた富」という表現が2回出てきます。そして、今日の第一朗読では、アモス書が読まれましたが、富には暴力や不正がついてまわることが記されています[8:4〜7]。
 また、ミラノの司教であった聖アンブロジウスは、「あなたが盗んでいないならあなたのお父さんが盗んだから、あなたのお父さんが盗んでいないならあなたのおじいさんが盗んだから、今のあなたは富を所有している」と言っています。このように、「不正にまみれた富」を清めるにはどうすればいいのでしょうか。自分の富を独占せず、他の人たちのために使うのです。困っている人を助けるために使ったり、人の命を支えるために使ったりすることによって、「不正にまみれた富」は清められます。
 「不正にまみれた富」ではなく、本当の富はどこにあるのでしょうか。私たちも一時的な利益や目の前の物事だけではなく、将来のこと、肉体の死の後のこと、永遠のことに目を向けて、考える必要があります。

C年年間第24主日(2016.9.11.)

C年年間第24主日 ルカによる福音書15:1~10

人々を高みへ引き上げるというよりも、神様を人々のもとに連れてきて、ひとりひとりが神様を受け入れられるようにするという方法をとったのがイエス様です。

 今日の福音朗読は、「ルカによる福音書」15章に記されている、あわれみについての三つのたとえ話のうちの、最初の二つでした。この後には、有名な「放蕩息子」の話が続きます。今日の福音は、「放蕩息子」のたとえも意識しながら読むべきでしょう。

 イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって話していますが、その背景を説明したいと思います。当時、ファリサイ派や律法学者たちが目指していたのは、人々を神様の高みまで引き上げることでした。人々に掟やルールを教え、日々の生活でそれを守るように厳しく指導していたのです。だからといって、誰もが同じように神様の高みまで到達できるわけではありません。このやり方だと当然、ついていけない人や、どんなにがんばっても届かないという人がでてきます。
 イエス様のやり方は、逆でした。人々を高みへ引き上げるというよりも、神様を人々のもとに連れてきて、ひとりひとりが神様を受け入れられるようにするという方法をとったのがイエス様です。すべての人に福音を伝え、神様の愛といつくしみ、赦し、救いをはっきりと示しました。心を開けば、神様は必ずひとりひとりのところに来てくださいます。あとは、それぞれが回心すればいいのです。ファリサイ派や律法学者の人たちは、このイエス様のやり方を受け入れることができず、全面的に否定していたのです。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。[ルカ15:1]

 イエス様は、福音はすべての人のためにあると言っていましたので、世間の人々から相手にされることのない嫌われ者や弱い立場の人たちも、イエス様の話に喜んで耳を傾けました。誰の心にも、幸せになりたい、本当の人生を生きたいという願いがあるでしょう。しかし、本当の幸せへ向かう道からそれてしまい、困難のなかで苦労している人たちもいます。それでもなお、その人たちが本当の幸せを求める小さな声をひろい上げ、何とか応えようとするのがイエス様の福音です。ですから、徴税人や罪人など、人々から嫌われている人たちが吸い寄せられるようにイエス様の周りに集まって来るのです。

 ファリサイ派や律法学者の人たちは、そうではありませんでした。「自分たちは律法を守っている」「自分たちは清く正しい」という意識があったので、彼らは神様の愛といつくしみ、赦し、救いを必要としなかったのです。したがって、彼らがイエス様に近寄っていくこともありませんでした。そればかりか、「イエス」という名前を口にすることさえ、避けているのです。

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」[ルカ15:2]

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「イエス」ではなく「この人」と言っています。「イエス」というのは、「神は救い」という意味だからです。

 イエス様は、罪人たちと話をするだけではなく、一緒に食事をしようとしていました。それはつまり、罪人たちと何もかもを分かち合おうとしていたことになります。これは、ファリサイ派や律法学者たちからみれば、とんでもないことでした。当時の社会では、罪人と食事をすることは、律法で禁じられていたからです。病気の人と食事をともにすれば病気が移ると思われていたのと同じように、罪人と一緒に食事をすれば自分にも悪や汚れが移ると考えられていたのです。罪人に近づき、ともに食事をすることによって、回心に導くというイエス様のやり方を、ファリサイ派や律法学者の人たちは全く理解できなかったのです。

 最初にお話ししたように、「ルカによる福音書」15章では、イエス様があわれみについて三つのたとえ話をしています。イエス様は、誰に向かって話をしているでしょうか。15章の最初の部分を読めば、イエス様は「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が不平を言いだしたので、話しはじめたのだということがわかります。イエス様を信じて従っている人のためではなく、自分を罪人だと認めている人のためでもありません。三つのたとえ話は、律法を厳格に守り、人々に教える立場であった、ファリサイ派と律法学者に向けられたものなのです。彼らは、三番目の「放蕩息子」の話でいえば、兄の立場にあたります。弟が帰ってきてみんなが喜んでいるのにともに喜ぶことができず、怒って家に入ろうとしなかった兄は、神様のことを一番大切にし、おきてを守っている自分だけが正しいと思いこんでいるファリサイ派や律法学者の人々の姿そのものです。

百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」[ルカ15:4〜6]

今日のたとえ話にはこのようなことが書かれていますが、このようなことをする人が本当にいるでしょうか。イエス様は、実際には誰もしないようなことを、当然のことのように話しています。イエス様にとっては、これが当たり前のことだからです。神様の価値観と人間の価値観が全く異なっているということを、イエス様はここではっきりと示しています。

 今日のたとえ話のポイントは、喜びです。見失った一匹の羊を見つけた人は、どれほど喜んだでしょうか。迷子になった羊と、捜し回った人との間には、特別な関係ができます。本来、羊を同じ方向に導くために、足で蹴ったり、それでも群れを離れてしまうような羊がいれば、その脚を折ったりということまでするのが普通でした。そのように無理やり従わせるのではなく、見つけた羊を肩に担いで家に帰り、見つかったことを周りの人たちにも報告して、みんなで喜ぼうとするのが神様の心です。

 二番目の「無くした銀貨」のたとえには、イエス様の繊細な部分があらわれています。なくしたものを見つけて喜ぶという全く同じ話ですが、「見失った羊」に登場するのは「羊を持っている人」で男性、今度は女性の話です。女性の立場にたって、イエス様が話します。ドラクメ銀貨を一枚なくした女性が家中を捜し、見つかったらやはり周りの人々を呼び集めて大いに喜びます。
 
 今日の二つのたとえ話は、私たちが神の御旨にそった本当の生活に戻ってくることを神様はどれほど喜ばれるか、という話です。三番目の「放蕩息子」のたとえ話を読むと、みんなが喜んでいるなかで、喜べないのは、宗教の古い枠にとらわれ、頑固な心を持っているファリサイ派と律法学者の人々だということがわかります。15章を通して読めば、羊を持っている人、女性、イエス様、罪人、放蕩息子、父親……など、登場する人たちみんなが喜んでいるのに、喜んでいないのは、放蕩息子の兄、そして、ファリサイ派と律法学者の人たちだけなのです。

C年年間第23主日(2016.9.4.)

C年年間第23主日 ルカによる福音書14:25〜33

選択の基準は、この世の人間関係とはかかわりなく、すでに決まっています。イエス様が教えてくださった神の御旨、福音の価値観がその中心にないといけないということです。

 今日、バチカンマザー・テレサ列聖式があります。彼女は、私たちが生きているこの現代社会において、人々にもっとも大きな影響を与えたキリスト教徒であるといえるのではないでしょうか。宗教や国という枠組みを越え、世界中の多くの人々がマザー・テレサの名前を知っています。現代の社会においてもっとも注目され、輝いている聖人であるといえるでしょう。彼女自身の「貧しさ」、また、貧しい人々への態度は、あらゆることへの執着を捨ててイエス・キリストのみを基準としていました。家族、親戚、修道会などこの世のつながりよりもイエス様が優先であり、それはすなわちなによりも貧しい人たちのことを一番に考えるということでした。このマザー・テレサの生き方を考えると、今日の福音も理解しやすくなるように思います。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。[ルカ14:25]

 今日の福音で、イエス様はエルサレムへの旅を続けています。たくさんの人たちが一緒についてきていましたが、みんながイエス様の福音をよく理解していたというわけでもありませんでした。おそらく、病気を治したりした奇跡が目当てでついてきた人もいたでしょう。人々は、エルサレムへ向かうイエス様をメシアだと思い、イスラエルの王となる人だと思い込んでいました。将来の王様についていけば、なにか自分も得をするのではないか、という気持ちで一緒に歩いていた人もたくさんいたでしょう。大勢の群衆がついてくるのを見たイエス様は、群衆に対して厳しい言葉を投げかけます。群衆がこの世の価値観で勝手に思い描いている甘い夢を、イエス様はきっぱりと否定するのです。そして、イエス様の弟子として従うための三つの条件があげられます。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。[ルカ14:26]

 これが第一の条件です。「マタイによる福音書」にも同じ内容が記されていますが、マタイは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」[マタイ10:37]と表現しています。四つの福音書の中で、イエス様の愛やいつくしみを優しく描いているルカが、あえて「憎む」という表現をしているのは、人々に衝撃を与えるためです。イエス様は、なぜこのような言い方をするのでしょうか。もっとも大切にするべき人間関係は家族のきずなであり、親子や夫婦を「憎む」ということがあってもいいのでしょうか。イエス様はこのような人間関係を全否定しているわけではありません。神様の愛は、これらの人間関係を超えており、くらべものにならないということなのです。

 たとえば、ひとりの若者が自分の家族である両親や兄弟姉妹を大切にしているとします。その若者は、成長すれば結婚して家を出て、伴侶とともに新しい家族をつくるでしょう。家を出て新しい家族とともに暮らしはじめたからといって、自分が育ってきた元の家族への愛がなくなったとか少なくなったというわけではありません。自分にとっての中心が新しい家族の方に移ったということに過ぎないのです。自分と血がつながっているこれまでの家族に対する愛そのものは変らず、質が変わったといえます。イエス様は、これと同じことを言っています。神様の愛と御旨が中心でなければならないということです。イエス様御自身が神様の愛と御旨を中心に生きていることを考えると、まずは神様の愛と御旨が中心であり、両親や兄弟姉妹、伴侶や子どもは、その神様からいただいたものですから、本来はその次にくるものとなるはずです。

 イエス様御自身も、群衆に話をしているときに「あなたのお母さんと兄弟たちが来ていますよ」と告げられ、次のように答えています。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」[ルカ8:21]

 イエス様はこのような生き方をしました。そして、弟子たちにも、同じ生き方を求めています。
 今日の福音に出てくる「憎む」という表現は、感情を表現する言葉ではありません。選択の基準は、この世の人間関係とはかかわりなく、すでに決まっています。イエス様が教えてくださった神の御旨、福音の価値観がその中心にないといけないということです。

自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。[ルカ14:27]

 二番目の条件です。当時、十字架ではりつけにされる刑を受ける人たちは、処刑される場所まで自分がはりつけにされる十字架を肩にかついで運ばなければなりませんでした。十字架を運ぶ途中、沿道の人々から侮辱され、唾を吐かれ、殴られていたのです。それと同じように、イエス様に従って福音の価値観で生きれば、世間からは認められず、利益を失ったり馬鹿にされたりするのだということを受け入れなければなりません。

 三番目の条件として、イエス様は二つのたとえ話をしています。塔を建てる話と戦争の話ですが、どちらの話も、何かをするときに準備としてお金や知識が必要だということをいっているようです。しかしここでイエス様が言っているのは、「何も要らない」ということです。

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。[ルカ14:33]

 イエス様に従うためには、何も持たない貧しい状態でなければならないということです。すべてのものは神様のものであり、自分のものは何一つありません。私たちがこの世で自分のものだと思っているものはすべて、神様からいただいたものだからです。イエス様も、自分のものは何一つ持っていませんでした。イエス様と同じように生きたいのであれば、私たちもそうしなければならないのです。

 第一と第二の条件については何となく理解できそうですが、第三の条件はもっとも難しいのではないかと思っています。私たちの日常生活を支えているのは、お金、家などの財産です。さらに今の世の中であれば、テレビやパソコン、携帯電話、さまざまな情報なども含まれるのではないでしょうか。私たちの生活を支えてくれているように見えるこれらのものは、いつのまにか私たちの生活を支配するようになってしまいます。これらのものを一切捨てなければ、イエス様の弟子として一緒に歩いていくことは難しいのです。

 今日の福音は、イエス様に従うための三つの条件を私たちにはっきりと示しています。

C年年間第22主日(2016.8.28.)

C年年間第22主日 ルカによる福音書14:1、7~14

すべての人が同じように、命の宴のよろこびにあずかるべきなのです。

 「ルカによる福音書」の中で、イエス様は3回、ファリサイ派の人の家に招かれて食事をしていますが、意見が合わずに3回とも対立することになります。ファリサイ派は、当時盛んだったユダヤ教の一派で律法を厳格に守ることを主張していた人々です。律法にとらわれずに愛の行いをするイエス様に対して、普段はファリサイ派のほうが喧嘩を売ってくるという感じですが、今回はイエス様のほうからファリサイ派に口論をもちかけているという印象を受けます。

 「ルカによる福音書」の14章を読むと、今日の福音の箇所の前にもう一つのエピソードが書かれています。そこで問題となっているのは、安息日に病気を治すことは律法で許されているかどうかということです。ユダヤ教では絶対に休むべき日とされており、安息日にしてはならないことが律法でこまかく決められていました。水腫を患っている人を前にしたイエス様は、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」[ルカ14:3]と律法の専門家たちやファリサイ派の人々に対してたずねますが、彼らは答えずに黙っています。
 同じように、「ルカによる福音書」13章には、やはり安息日にイエス様が会堂で腰の曲がった婦人をいやした話が記されています。安息日に病人をいやしたイエス様に腹を立てた会堂長に対してイエス様は、次のように言っています。

 偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。[ルカ13:15]

 安息日であっても、自分の利益になることは休まずにしている人に対して、イエス様は「偽善者」という厳しい言葉を投げかけているのです。

 このようなことをふまえた上で、今日の福音を読んでみましょう。イエス様は、招待された客たちが上席を選ぶ様子を見ています。上席を選ぶということは、人々の中で自分が特別な立場であることを周囲に示したい、目立ちたいということです。このような姿勢は、律法に従って神様を大切にしているとは言えず、神様よりも自分自身を大切にしていることになります。イエス様はたとえ話をしながら、偽善者たちに厳しい鞭を与えます。宴会に招かれたとき、重要な人物の近くや食べ物が先に配られる席ではなく、末席に座りなさいとイエス様は話します。ここで引用されているのは、旧約聖書の中で知恵文学の代表といわれ、格言や教訓を多く含む「箴言」です。

 王の前でうぬぼれるな。
 身分の高い人々の場に立とうとするな。
 高貴な人の前で下座に落とされるよりも
 上座に着くようにと言われる方がよい。  [箴言25:6〜7]

 ここでイエス様は、人々に一つの教えを示します。その教えは、自分の利益ばかりを考えて自己中心的に行動するのをやめなさい、ということです。そして、神を信じるものとして、愛をもって人々に奉仕することが何よりも大切であるということを最も大切な価値観にしなさいということなのです。

 イエス様が言っているのは、控え目にへりくだりなさい、ということではありません。単に謙遜な態度を勧めているというのではなく、自己中心的な価値観を引っくり返すことが求められているのです。自分だけが得をするような考え方や行動をやめ、周りの人たちのために尽くすことを最優先にすること、それこそ神様が本当に求めていることであるとイエス様が言っているのです。

 イエス様はもう一つ、人々の価値観を逆転させる話をします。食事の会には親しい人を招くのが普通ですが、イエス様は次のように話します。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」[ルカ14:12]

 親しい者どうしの付き合いが、エゴイズムにつながるおそれがあります。お互いが得することだけを目的とした関係は、他の人を排除することにもなりかねません。ここでもイエス様は、エゴイズムに支配された私たち人間の価値観を引っくり返すように勧めています。


 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」[ルカ14:13〜14]

 何らかの見返りを期待して親しい人を招くのではなく、お返しができない人を招くべきだとイエス様は言っています。天の御父を信じているならば、すべての人を兄弟姉妹として受け入れ、どんな人でも食事に招くべきです。
 また当時、ファリサイ派の人たちは、毎日神殿に行って祈っていましたが、ここに書かれているような「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は、神殿に入ることを禁じられていました。今日の福音で、イエス様は単に宴会の席や招待客のことだけを話しているわけではないことが、ここからもわかります。
 神様は、私たちひとりひとりを人生という宴に招いてくださっています。すべての人が神の宴に招かれているのであれば、私たちも同じようにすべての人を招くことが求められています。すべての人が同じように、命の宴のよろこびにあずかるべきなのです。そして、特に弱い立場にある人々を優先的に招くことが、神様のみむねにかなう愛の行いだといえます。本当の信仰は、ファリサイ派の人々が思っているように、律法の言葉に厳しくしばられるようなものではありません。

 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。[ルカ14:14]
 今日の福音のしめくくりの言葉です。イエス様は、ファリサイ派のある議員の家で食事をして話をしているので、この言葉もファリサイ派の人々に向けられています。イエス様が言う通り、自分のことばかり考えるのではなく、価値観を引っくり返して、すべての人々のことを考えることにより、神が報いてくださるということなのです。

C年年間第21主日(2016.8.21.)

C年年間第21主日 ルカによる福音書13:22〜30

大切なイエス様に本気で出会おうとするならば、主人が戸を閉めてしまってから遅れてくるということがあるはずがないのです。

 四つの福音書の中で、「ルカによる福音書」は、もっとも喜びにあふれ、神のやさしさといつくしみを人々に証しするものだといわれています。ルカは特に、女性や外国人、貧しい人など弱い立場の人々を温かく迎える、愛情に満ちたイエス様の姿を書き残しています。しかし今日の福音を読むと、少し異なった印象を持つでしょう。今日の福音は、「ルカによる福音書」の中で、もっとも厳しいページかもしれません。

 お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ[ルカ13:27]
 あなたがたは、……自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする[ルカ13:28]

 このような厳しい表現は、「マタイによる福音書」にはしばしば見られますが、「ルカによる福音書」の中ではめずらしいといえます。

 今日の福音の場面を説明しましょう。いつものように町や村で福音宣教をしながらエルサレムに向かっていたイエス様に、突然ある人が質問します。

 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」[ルカ13:23]

 この問いに対して、イエス様は直接答えることをしていません。救われるためにはどうすればいいのか、という話を展開します。イエス様は、話しはじめます。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」[ルカ13:24]

イエス様は、救われるために何か特別に難しいことを要求しているわけではありません。
 
 「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは……『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」[ルカ13:25]

 よく読むと、ただ「すでに戸が閉まってからでは遅いのだ」ということをイエス様は言っていることに気づくでしょう。特別な犠牲や努力を求めているわけではありません。「お前たちがどこの者か知らない」[ルカ13:25]という主人の返事は、あきらかに家の中から聞えてくる者です。つまり、家の中と家の外がはっきりと区別されているということです。イエス様は、家の中にいます。

 ルカはなぜこのような表現をしているのでしょうか。ルカは、イエス様を直接知ることのなかった第三世代の信者でした。地中海沿岸には多くの教会が成立してたくさんの信者がいましたが、時間がたつにつれてその熱心さやひたむきさは失われつつありました。そのような教会に対して、ルカはこのような言葉を使っているのです。ですから、入ろうとしても入れない[ルカ13:24]とか、ここで食べたり飲んだり[ルカ13:26]というのは、ミサの話です。多くの人がミサに来ても、その中で本当にイエス様と出会っている人はどれだけいるのかというのが「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問の意味です。
 ユダヤ人のメンタリティーの中に、川を流れる水のうちの大部分は無駄になり、イスラエル民族という「一滴」だけが救われるという考え方がありました。イエス様に質問した人が期待していたのは、このような返事だったかもしれません。

 イエス様の答えは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」[ルカ13:24]でした。きちんと神様に出会っているでしょうか、たくさんの人が来ますが、意識して神に出会おうと前へ前へと進まないかぎり、福音を生きることができず、本当に救われることはないのですよ、ということです。
 たとえば、今の時代、ミサに遅れてくる信者がいるという具体的な問題もあります。大切なイエス様に本気で出会おうとするならば、主人が戸を閉めてしまってから遅れてくるということがあるはずがないのです。戸を閉められてしまってから、外に立って「開けてください」と戸をたたいても、「お前たちがどこの者か知らない」[ルカ13:25]と言われてしまうだけです。これはとても悲しいことではありませんか。今日の福音では、家の中の人たちと外の人たちがはっきりと分けられていますが、イエス様は、私たちが外に閉め出されてしまうことがないように、この話をしているのです。

 私たちも、イエス様に招かれてミサに来ます。聖書の朗読を聞き、説教を聞き、御聖体をいただきますが、その後は? イエス様に出会ったならば、そこで聞いた福音といただいた御聖体が、日々の生活の原動力となるはずです。ただ与えられるだけではなく、自分の生活や行いを神様が望んでいらっしゃる方向に変えて、人々に無償の愛を提供していくことが求められているのです。それができないのであれば、ミサで本当にイエス様に出会ったとはいえず、家の外に立って「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです」[ルカ13:26]と言い出す人たちと同じになってしまいます。日曜日ごとにミサにあずかっても、ただそこにいるだけ、ただ聞いているだけでは意味がないのです。

 それでは、今日の福音で「家の中」にいるのは誰でしょう。

 ……アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり……[ルカ13:28]

 「すべての預言者」に注目していただきたいです。旧約聖書の三分の一は、預言書です。預言書の中で、預言者たちが何よりも力強く訴えているのは、「偽りの典礼をするな。まず神様の望んでいる生活をしなさい。正義を生きなさい」というメッセージです。この預言者たちは、家の中すなわち神の国に入って、宴会の席についています。神の国の宴は、神様と共にいて本当の命にあずかるという大きな喜びです。福音書の中で「宴」といえば、つねにこのイメージを持っています。私たちはみんなこの宴に招かれていますが、本当に「入っているか入っていないのか」は、私たちひとりひとりが決めることです。遅れたら、戸を閉められてしまうのですから。

 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席につく。[ルカ13:29]

 神の国の宴には、全世界のすべての人が招かれています。キリスト教を信じていない人もイエス様を知らない人も、同じように招かれているのです。カトリック信者でなくても、ミサに来ない人も、招かれています。
 神の国で宴会の席に着く[ルカ13:29]ということは、私たち人間が常識的に考えていることとは違うのだということを、このページは教えています。