いのちのいずみ Ⅱ

南宮崎カトリック教会の主日のミサの説教を掲載します

C年年間第22主日(2016.8.28.)

C年年間第22主日 ルカによる福音書14:1、7~14

すべての人が同じように、命の宴のよろこびにあずかるべきなのです。

 「ルカによる福音書」の中で、イエス様は3回、ファリサイ派の人の家に招かれて食事をしていますが、意見が合わずに3回とも対立することになります。ファリサイ派は、当時盛んだったユダヤ教の一派で律法を厳格に守ることを主張していた人々です。律法にとらわれずに愛の行いをするイエス様に対して、普段はファリサイ派のほうが喧嘩を売ってくるという感じですが、今回はイエス様のほうからファリサイ派に口論をもちかけているという印象を受けます。

 「ルカによる福音書」の14章を読むと、今日の福音の箇所の前にもう一つのエピソードが書かれています。そこで問題となっているのは、安息日に病気を治すことは律法で許されているかどうかということです。ユダヤ教では絶対に休むべき日とされており、安息日にしてはならないことが律法でこまかく決められていました。水腫を患っている人を前にしたイエス様は、「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」[ルカ14:3]と律法の専門家たちやファリサイ派の人々に対してたずねますが、彼らは答えずに黙っています。
 同じように、「ルカによる福音書」13章には、やはり安息日にイエス様が会堂で腰の曲がった婦人をいやした話が記されています。安息日に病人をいやしたイエス様に腹を立てた会堂長に対してイエス様は、次のように言っています。

 偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。[ルカ13:15]

 安息日であっても、自分の利益になることは休まずにしている人に対して、イエス様は「偽善者」という厳しい言葉を投げかけているのです。

 このようなことをふまえた上で、今日の福音を読んでみましょう。イエス様は、招待された客たちが上席を選ぶ様子を見ています。上席を選ぶということは、人々の中で自分が特別な立場であることを周囲に示したい、目立ちたいということです。このような姿勢は、律法に従って神様を大切にしているとは言えず、神様よりも自分自身を大切にしていることになります。イエス様はたとえ話をしながら、偽善者たちに厳しい鞭を与えます。宴会に招かれたとき、重要な人物の近くや食べ物が先に配られる席ではなく、末席に座りなさいとイエス様は話します。ここで引用されているのは、旧約聖書の中で知恵文学の代表といわれ、格言や教訓を多く含む「箴言」です。

 王の前でうぬぼれるな。
 身分の高い人々の場に立とうとするな。
 高貴な人の前で下座に落とされるよりも
 上座に着くようにと言われる方がよい。  [箴言25:6〜7]

 ここでイエス様は、人々に一つの教えを示します。その教えは、自分の利益ばかりを考えて自己中心的に行動するのをやめなさい、ということです。そして、神を信じるものとして、愛をもって人々に奉仕することが何よりも大切であるということを最も大切な価値観にしなさいということなのです。

 イエス様が言っているのは、控え目にへりくだりなさい、ということではありません。単に謙遜な態度を勧めているというのではなく、自己中心的な価値観を引っくり返すことが求められているのです。自分だけが得をするような考え方や行動をやめ、周りの人たちのために尽くすことを最優先にすること、それこそ神様が本当に求めていることであるとイエス様が言っているのです。

 イエス様はもう一つ、人々の価値観を逆転させる話をします。食事の会には親しい人を招くのが普通ですが、イエス様は次のように話します。

 「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」[ルカ14:12]

 親しい者どうしの付き合いが、エゴイズムにつながるおそれがあります。お互いが得することだけを目的とした関係は、他の人を排除することにもなりかねません。ここでもイエス様は、エゴイズムに支配された私たち人間の価値観を引っくり返すように勧めています。


 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」[ルカ14:13〜14]

 何らかの見返りを期待して親しい人を招くのではなく、お返しができない人を招くべきだとイエス様は言っています。天の御父を信じているならば、すべての人を兄弟姉妹として受け入れ、どんな人でも食事に招くべきです。
 また当時、ファリサイ派の人たちは、毎日神殿に行って祈っていましたが、ここに書かれているような「体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」は、神殿に入ることを禁じられていました。今日の福音で、イエス様は単に宴会の席や招待客のことだけを話しているわけではないことが、ここからもわかります。
 神様は、私たちひとりひとりを人生という宴に招いてくださっています。すべての人が神の宴に招かれているのであれば、私たちも同じようにすべての人を招くことが求められています。すべての人が同じように、命の宴のよろこびにあずかるべきなのです。そして、特に弱い立場にある人々を優先的に招くことが、神様のみむねにかなう愛の行いだといえます。本当の信仰は、ファリサイ派の人々が思っているように、律法の言葉に厳しくしばられるようなものではありません。

 正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。[ルカ14:14]
 今日の福音のしめくくりの言葉です。イエス様は、ファリサイ派のある議員の家で食事をして話をしているので、この言葉もファリサイ派の人々に向けられています。イエス様が言う通り、自分のことばかり考えるのではなく、価値観を引っくり返して、すべての人々のことを考えることにより、神が報いてくださるということなのです。