いのちのいずみ Ⅱ

南宮崎カトリック教会の主日のミサの説教を掲載します

C年年間第23主日(2016.9.4.)

C年年間第23主日 ルカによる福音書14:25〜33

選択の基準は、この世の人間関係とはかかわりなく、すでに決まっています。イエス様が教えてくださった神の御旨、福音の価値観がその中心にないといけないということです。

 今日、バチカンマザー・テレサ列聖式があります。彼女は、私たちが生きているこの現代社会において、人々にもっとも大きな影響を与えたキリスト教徒であるといえるのではないでしょうか。宗教や国という枠組みを越え、世界中の多くの人々がマザー・テレサの名前を知っています。現代の社会においてもっとも注目され、輝いている聖人であるといえるでしょう。彼女自身の「貧しさ」、また、貧しい人々への態度は、あらゆることへの執着を捨ててイエス・キリストのみを基準としていました。家族、親戚、修道会などこの世のつながりよりもイエス様が優先であり、それはすなわちなによりも貧しい人たちのことを一番に考えるということでした。このマザー・テレサの生き方を考えると、今日の福音も理解しやすくなるように思います。

大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。[ルカ14:25]

 今日の福音で、イエス様はエルサレムへの旅を続けています。たくさんの人たちが一緒についてきていましたが、みんながイエス様の福音をよく理解していたというわけでもありませんでした。おそらく、病気を治したりした奇跡が目当てでついてきた人もいたでしょう。人々は、エルサレムへ向かうイエス様をメシアだと思い、イスラエルの王となる人だと思い込んでいました。将来の王様についていけば、なにか自分も得をするのではないか、という気持ちで一緒に歩いていた人もたくさんいたでしょう。大勢の群衆がついてくるのを見たイエス様は、群衆に対して厳しい言葉を投げかけます。群衆がこの世の価値観で勝手に思い描いている甘い夢を、イエス様はきっぱりと否定するのです。そして、イエス様の弟子として従うための三つの条件があげられます。

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。[ルカ14:26]

 これが第一の条件です。「マタイによる福音書」にも同じ内容が記されていますが、マタイは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」[マタイ10:37]と表現しています。四つの福音書の中で、イエス様の愛やいつくしみを優しく描いているルカが、あえて「憎む」という表現をしているのは、人々に衝撃を与えるためです。イエス様は、なぜこのような言い方をするのでしょうか。もっとも大切にするべき人間関係は家族のきずなであり、親子や夫婦を「憎む」ということがあってもいいのでしょうか。イエス様はこのような人間関係を全否定しているわけではありません。神様の愛は、これらの人間関係を超えており、くらべものにならないということなのです。

 たとえば、ひとりの若者が自分の家族である両親や兄弟姉妹を大切にしているとします。その若者は、成長すれば結婚して家を出て、伴侶とともに新しい家族をつくるでしょう。家を出て新しい家族とともに暮らしはじめたからといって、自分が育ってきた元の家族への愛がなくなったとか少なくなったというわけではありません。自分にとっての中心が新しい家族の方に移ったということに過ぎないのです。自分と血がつながっているこれまでの家族に対する愛そのものは変らず、質が変わったといえます。イエス様は、これと同じことを言っています。神様の愛と御旨が中心でなければならないということです。イエス様御自身が神様の愛と御旨を中心に生きていることを考えると、まずは神様の愛と御旨が中心であり、両親や兄弟姉妹、伴侶や子どもは、その神様からいただいたものですから、本来はその次にくるものとなるはずです。

 イエス様御自身も、群衆に話をしているときに「あなたのお母さんと兄弟たちが来ていますよ」と告げられ、次のように答えています。

「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」[ルカ8:21]

 イエス様はこのような生き方をしました。そして、弟子たちにも、同じ生き方を求めています。
 今日の福音に出てくる「憎む」という表現は、感情を表現する言葉ではありません。選択の基準は、この世の人間関係とはかかわりなく、すでに決まっています。イエス様が教えてくださった神の御旨、福音の価値観がその中心にないといけないということです。

自分の十字架を背負ってついて来るものでなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。[ルカ14:27]

 二番目の条件です。当時、十字架ではりつけにされる刑を受ける人たちは、処刑される場所まで自分がはりつけにされる十字架を肩にかついで運ばなければなりませんでした。十字架を運ぶ途中、沿道の人々から侮辱され、唾を吐かれ、殴られていたのです。それと同じように、イエス様に従って福音の価値観で生きれば、世間からは認められず、利益を失ったり馬鹿にされたりするのだということを受け入れなければなりません。

 三番目の条件として、イエス様は二つのたとえ話をしています。塔を建てる話と戦争の話ですが、どちらの話も、何かをするときに準備としてお金や知識が必要だということをいっているようです。しかしここでイエス様が言っているのは、「何も要らない」ということです。

自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。[ルカ14:33]

 イエス様に従うためには、何も持たない貧しい状態でなければならないということです。すべてのものは神様のものであり、自分のものは何一つありません。私たちがこの世で自分のものだと思っているものはすべて、神様からいただいたものだからです。イエス様も、自分のものは何一つ持っていませんでした。イエス様と同じように生きたいのであれば、私たちもそうしなければならないのです。

 第一と第二の条件については何となく理解できそうですが、第三の条件はもっとも難しいのではないかと思っています。私たちの日常生活を支えているのは、お金、家などの財産です。さらに今の世の中であれば、テレビやパソコン、携帯電話、さまざまな情報なども含まれるのではないでしょうか。私たちの生活を支えてくれているように見えるこれらのものは、いつのまにか私たちの生活を支配するようになってしまいます。これらのものを一切捨てなければ、イエス様の弟子として一緒に歩いていくことは難しいのです。

 今日の福音は、イエス様に従うための三つの条件を私たちにはっきりと示しています。