いのちのいずみ Ⅱ

南宮崎カトリック教会の主日のミサの説教を掲載します

C年年間第24主日(2016.9.11.)

C年年間第24主日 ルカによる福音書15:1~10

人々を高みへ引き上げるというよりも、神様を人々のもとに連れてきて、ひとりひとりが神様を受け入れられるようにするという方法をとったのがイエス様です。

 今日の福音朗読は、「ルカによる福音書」15章に記されている、あわれみについての三つのたとえ話のうちの、最初の二つでした。この後には、有名な「放蕩息子」の話が続きます。今日の福音は、「放蕩息子」のたとえも意識しながら読むべきでしょう。

 イエス様は、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向かって話していますが、その背景を説明したいと思います。当時、ファリサイ派や律法学者たちが目指していたのは、人々を神様の高みまで引き上げることでした。人々に掟やルールを教え、日々の生活でそれを守るように厳しく指導していたのです。だからといって、誰もが同じように神様の高みまで到達できるわけではありません。このやり方だと当然、ついていけない人や、どんなにがんばっても届かないという人がでてきます。
 イエス様のやり方は、逆でした。人々を高みへ引き上げるというよりも、神様を人々のもとに連れてきて、ひとりひとりが神様を受け入れられるようにするという方法をとったのがイエス様です。すべての人に福音を伝え、神様の愛といつくしみ、赦し、救いをはっきりと示しました。心を開けば、神様は必ずひとりひとりのところに来てくださいます。あとは、それぞれが回心すればいいのです。ファリサイ派や律法学者の人たちは、このイエス様のやり方を受け入れることができず、全面的に否定していたのです。

徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。[ルカ15:1]

 イエス様は、福音はすべての人のためにあると言っていましたので、世間の人々から相手にされることのない嫌われ者や弱い立場の人たちも、イエス様の話に喜んで耳を傾けました。誰の心にも、幸せになりたい、本当の人生を生きたいという願いがあるでしょう。しかし、本当の幸せへ向かう道からそれてしまい、困難のなかで苦労している人たちもいます。それでもなお、その人たちが本当の幸せを求める小さな声をひろい上げ、何とか応えようとするのがイエス様の福音です。ですから、徴税人や罪人など、人々から嫌われている人たちが吸い寄せられるようにイエス様の周りに集まって来るのです。

 ファリサイ派や律法学者の人たちは、そうではありませんでした。「自分たちは律法を守っている」「自分たちは清く正しい」という意識があったので、彼らは神様の愛といつくしみ、赦し、救いを必要としなかったのです。したがって、彼らがイエス様に近寄っていくこともありませんでした。そればかりか、「イエス」という名前を口にすることさえ、避けているのです。

「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」[ルカ15:2]

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「イエス」ではなく「この人」と言っています。「イエス」というのは、「神は救い」という意味だからです。

 イエス様は、罪人たちと話をするだけではなく、一緒に食事をしようとしていました。それはつまり、罪人たちと何もかもを分かち合おうとしていたことになります。これは、ファリサイ派や律法学者たちからみれば、とんでもないことでした。当時の社会では、罪人と食事をすることは、律法で禁じられていたからです。病気の人と食事をともにすれば病気が移ると思われていたのと同じように、罪人と一緒に食事をすれば自分にも悪や汚れが移ると考えられていたのです。罪人に近づき、ともに食事をすることによって、回心に導くというイエス様のやり方を、ファリサイ派や律法学者の人たちは全く理解できなかったのです。

 最初にお話ししたように、「ルカによる福音書」15章では、イエス様があわれみについて三つのたとえ話をしています。イエス様は、誰に向かって話をしているでしょうか。15章の最初の部分を読めば、イエス様は「ファリサイ派の人々や律法学者たち」が不平を言いだしたので、話しはじめたのだということがわかります。イエス様を信じて従っている人のためではなく、自分を罪人だと認めている人のためでもありません。三つのたとえ話は、律法を厳格に守り、人々に教える立場であった、ファリサイ派と律法学者に向けられたものなのです。彼らは、三番目の「放蕩息子」の話でいえば、兄の立場にあたります。弟が帰ってきてみんなが喜んでいるのにともに喜ぶことができず、怒って家に入ろうとしなかった兄は、神様のことを一番大切にし、おきてを守っている自分だけが正しいと思いこんでいるファリサイ派や律法学者の人々の姿そのものです。

百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」[ルカ15:4〜6]

今日のたとえ話にはこのようなことが書かれていますが、このようなことをする人が本当にいるでしょうか。イエス様は、実際には誰もしないようなことを、当然のことのように話しています。イエス様にとっては、これが当たり前のことだからです。神様の価値観と人間の価値観が全く異なっているということを、イエス様はここではっきりと示しています。

 今日のたとえ話のポイントは、喜びです。見失った一匹の羊を見つけた人は、どれほど喜んだでしょうか。迷子になった羊と、捜し回った人との間には、特別な関係ができます。本来、羊を同じ方向に導くために、足で蹴ったり、それでも群れを離れてしまうような羊がいれば、その脚を折ったりということまでするのが普通でした。そのように無理やり従わせるのではなく、見つけた羊を肩に担いで家に帰り、見つかったことを周りの人たちにも報告して、みんなで喜ぼうとするのが神様の心です。

 二番目の「無くした銀貨」のたとえには、イエス様の繊細な部分があらわれています。なくしたものを見つけて喜ぶという全く同じ話ですが、「見失った羊」に登場するのは「羊を持っている人」で男性、今度は女性の話です。女性の立場にたって、イエス様が話します。ドラクメ銀貨を一枚なくした女性が家中を捜し、見つかったらやはり周りの人々を呼び集めて大いに喜びます。
 
 今日の二つのたとえ話は、私たちが神の御旨にそった本当の生活に戻ってくることを神様はどれほど喜ばれるか、という話です。三番目の「放蕩息子」のたとえ話を読むと、みんなが喜んでいるなかで、喜べないのは、宗教の古い枠にとらわれ、頑固な心を持っているファリサイ派と律法学者の人々だということがわかります。15章を通して読めば、羊を持っている人、女性、イエス様、罪人、放蕩息子、父親……など、登場する人たちみんなが喜んでいるのに、喜んでいないのは、放蕩息子の兄、そして、ファリサイ派と律法学者の人たちだけなのです。