いのちのいずみ Ⅱ

南宮崎カトリック教会の主日のミサの説教を掲載します

C年年間第25主日(2016.9.18.)

C年年間第25主日 ルカによる福音書16:1~13

一時的な利益や目の前の物事だけではなく、将来のこと、肉体の死の後のこと、そして永遠に目を向けて、考える必要があります。

 今日の福音朗読は、私たちの生活を支えているお金や財産をどのように使うべきかという話です。今日のたとえ話には、主人は不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた[ルカ16:8]と書かれています。これを文字通りに受けとれば、みなさんは驚き、また違和感をおぼえるでしょう。なぜ、不正な人がほめられるのでしょうか。誤解をまねきやすい表現なので、このたとえ話でイエス様が言おうとしていることをきちんと理解する必要があります。イエス様は、この管理人がしているような、証文の書き直しや不正を勧めているわけではありません。管理人の鋭い判断と機敏な行動には、ほめられるべき賢さがあるということです。

 たとえば、私が以前聞いた話ですが、指一本ほどの小さな折りたたみナイフを使って、刑務所から脱走した人がいるそうです。もちろん、刑務所から脱走すること自体は良いことではありませんが、折りたたみナイフ一本でそれを実現したことについては、その方法を思いついた賢さをほめるしかないように思います。今日の福音を読むと、私はこの話を思い出すのです。イエス様も、同じようなことを言っているような気がします。くわしく読んでみましょう。

ある金持ちに一人の管理人がいた。[ルカ16:1]

 「管理」という言葉は、福音書にたびたび出てきます。たとえば、ルカ福音書の別の場面では、忠実で賢い管理人[ルカ12:42]が登場します。今日の福音に登場するのは、頭の切れる賢い管理人です。この管理人は主人の財産を無駄遣いしていることがばれてしまい、主人から呼びつけられて言われます。

「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。」[ルカ16:2]

 自分の不正がばれてしまったこの管理人は、管理の仕事をやめさせられる前に、さらに不正を重ねて自分の財産を少しでも増やしておこうとはしませんでした。彼は頭を切り替えて、まったく逆のことをしたのです。当時の管理人は、主人と借りのある人の間に立ってお金の管理をすることで、主人からも借りのある人からも手数料をとり、自分のもうけにしていました。当時の徴税人と同じようなことをしていたのです。
 しかしこの管理人は、主人に借りのあるものを呼んで、これまでの証文の書き直しをさせます。「油百パトス」は「五十パトス」に、「小麦百コロス」は「八十コロス」に書き直させ、自分の取り分をなくしたのです。一見、主人の財産はそのままで、間に立つ管理人が損をするようにみえますが、そうではないのです。借りを減らしてもらった人々は喜び、ここまで借りを減らしてくれた管理人の友達となるからです。目の前の利益よりも将来のことを視野に入れ、仕事がなくなったときに自分を家に迎えてくれるような友達を作ろうとしたのが、この管理人の抜け目のないやり方[ルカ16:8]でした。イエス様は、これをほめているのです。

 では、今日の福音を私たちの生活にあてはめて考えてみましょう。私たちも、日々の暮らしの中では、目の前の利益や目に見える具体的な物事を優先させがちです。しかし、私たちの社会で「富」といわれているこれらのものを取り上げられることになったときに困らないように、今持っている「富」を惜しまずに使うべきだということです。今の世の中で私たちが持っている財産やお金、家や電化製品などは永遠のものではなく、いつかは取り上げられる一時的なものです。では、この管理人のように、それらがいよいよ取り上げられることになった時、私たちはどうすればいいのでしょうか。お金や物がなくても、その時に自分を大事にしてくれる友達がたくさんいればいいのです。自分の財産をひとりじめするのではなく、人のために使えば、さらに富が増えなくても友達は増えます。その人たちはあなたの味方となり、あなたの自分の家に迎え入れて世話をしてくれるでしょう。
 この管理人は、自分の富にこだわることなく、すぐに頭の切り替えができる人でした。目の前の一時的なことだけではなく、将来、自分にとって何が本当に必要なのか、考えて実行することができたのです。私たちも、日々の生活の中で同じようにするよう、イエス様から招かれています。

不正にまみれた富で友達を作りなさい。[ルカ16:9]

不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたに本当に価値あるものを任せるだろうか。[ルカ16:11]

 今日の福音には、「不正にまみれた富」という表現が2回出てきます。そして、今日の第一朗読では、アモス書が読まれましたが、富には暴力や不正がついてまわることが記されています[8:4〜7]。
 また、ミラノの司教であった聖アンブロジウスは、「あなたが盗んでいないならあなたのお父さんが盗んだから、あなたのお父さんが盗んでいないならあなたのおじいさんが盗んだから、今のあなたは富を所有している」と言っています。このように、「不正にまみれた富」を清めるにはどうすればいいのでしょうか。自分の富を独占せず、他の人たちのために使うのです。困っている人を助けるために使ったり、人の命を支えるために使ったりすることによって、「不正にまみれた富」は清められます。
 「不正にまみれた富」ではなく、本当の富はどこにあるのでしょうか。私たちも一時的な利益や目の前の物事だけではなく、将来のこと、肉体の死の後のこと、永遠のことに目を向けて、考える必要があります。