いのちのいずみ Ⅱ 〈月曜日の福音〉

イエス・キリストの福音を伝えます

C年年間第21主日(2016.8.21.)

C年年間第21主日 ルカによる福音書13:22〜30

大切なイエス様に本気で出会おうとするならば、主人が戸を閉めてしまってから遅れてくるということがあるはずがないのです。

 四つの福音書の中で、「ルカによる福音書」は、もっとも喜びにあふれ、神のやさしさといつくしみを人々に証しするものだといわれています。ルカは特に、女性や外国人、貧しい人など弱い立場の人々を温かく迎える、愛情に満ちたイエス様の姿を書き残しています。しかし今日の福音を読むと、少し異なった印象を持つでしょう。今日の福音は、「ルカによる福音書」の中で、もっとも厳しいページかもしれません。

 お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ[ルカ13:27]
 あなたがたは、……自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする[ルカ13:28]

 このような厳しい表現は、「マタイによる福音書」にはしばしば見られますが、「ルカによる福音書」の中ではめずらしいといえます。

 今日の福音の場面を説明しましょう。いつものように町や村で福音宣教をしながらエルサレムに向かっていたイエス様に、突然ある人が質問します。

 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」[ルカ13:23]

 この問いに対して、イエス様は直接答えることをしていません。救われるためにはどうすればいいのか、という話を展開します。イエス様は、話しはじめます。

 「狭い戸口から入るように努めなさい」[ルカ13:24]

イエス様は、救われるために何か特別に難しいことを要求しているわけではありません。
 
 「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは……『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」[ルカ13:25]

 よく読むと、ただ「すでに戸が閉まってからでは遅いのだ」ということをイエス様は言っていることに気づくでしょう。特別な犠牲や努力を求めているわけではありません。「お前たちがどこの者か知らない」[ルカ13:25]という主人の返事は、あきらかに家の中から聞えてくる者です。つまり、家の中と家の外がはっきりと区別されているということです。イエス様は、家の中にいます。

 ルカはなぜこのような表現をしているのでしょうか。ルカは、イエス様を直接知ることのなかった第三世代の信者でした。地中海沿岸には多くの教会が成立してたくさんの信者がいましたが、時間がたつにつれてその熱心さやひたむきさは失われつつありました。そのような教会に対して、ルカはこのような言葉を使っているのです。ですから、入ろうとしても入れない[ルカ13:24]とか、ここで食べたり飲んだり[ルカ13:26]というのは、ミサの話です。多くの人がミサに来ても、その中で本当にイエス様と出会っている人はどれだけいるのかというのが「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」という質問の意味です。
 ユダヤ人のメンタリティーの中に、川を流れる水のうちの大部分は無駄になり、イスラエル民族という「一滴」だけが救われるという考え方がありました。イエス様に質問した人が期待していたのは、このような返事だったかもしれません。

 イエス様の答えは、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」[ルカ13:24]でした。きちんと神様に出会っているでしょうか、たくさんの人が来ますが、意識して神に出会おうと前へ前へと進まないかぎり、福音を生きることができず、本当に救われることはないのですよ、ということです。
 たとえば、今の時代、ミサに遅れてくる信者がいるという具体的な問題もあります。大切なイエス様に本気で出会おうとするならば、主人が戸を閉めてしまってから遅れてくるということがあるはずがないのです。戸を閉められてしまってから、外に立って「開けてください」と戸をたたいても、「お前たちがどこの者か知らない」[ルカ13:25]と言われてしまうだけです。これはとても悲しいことではありませんか。今日の福音では、家の中の人たちと外の人たちがはっきりと分けられていますが、イエス様は、私たちが外に閉め出されてしまうことがないように、この話をしているのです。

 私たちも、イエス様に招かれてミサに来ます。聖書の朗読を聞き、説教を聞き、御聖体をいただきますが、その後は? イエス様に出会ったならば、そこで聞いた福音といただいた御聖体が、日々の生活の原動力となるはずです。ただ与えられるだけではなく、自分の生活や行いを神様が望んでいらっしゃる方向に変えて、人々に無償の愛を提供していくことが求められているのです。それができないのであれば、ミサで本当にイエス様に出会ったとはいえず、家の外に立って「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場で教えを受けたのです」[ルカ13:26]と言い出す人たちと同じになってしまいます。日曜日ごとにミサにあずかっても、ただそこにいるだけ、ただ聞いているだけでは意味がないのです。

 それでは、今日の福音で「家の中」にいるのは誰でしょう。

 ……アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり……[ルカ13:28]

 「すべての預言者」に注目していただきたいです。旧約聖書の三分の一は、預言書です。預言書の中で、預言者たちが何よりも力強く訴えているのは、「偽りの典礼をするな。まず神様の望んでいる生活をしなさい。正義を生きなさい」というメッセージです。この預言者たちは、家の中すなわち神の国に入って、宴会の席についています。神の国の宴は、神様と共にいて本当の命にあずかるという大きな喜びです。福音書の中で「宴」といえば、つねにこのイメージを持っています。私たちはみんなこの宴に招かれていますが、本当に「入っているか入っていないのか」は、私たちひとりひとりが決めることです。遅れたら、戸を閉められてしまうのですから。

 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席につく。[ルカ13:29]

 神の国の宴には、全世界のすべての人が招かれています。キリスト教を信じていない人もイエス様を知らない人も、同じように招かれているのです。カトリック信者でなくても、ミサに来ない人も、招かれています。
 神の国で宴会の席に着く[ルカ13:29]ということは、私たち人間が常識的に考えていることとは違うのだということを、このページは教えています。

C年年間第20主日(2016.8.14.)

C年年間第20主日 ルカによる福音書12章49〜53節

聖霊を伝えようとすれば、世の中から大きな圧力や迫害を受けることが避けられないのです。

ルカによる福音書」の中には、他の福音書と比べて「平和」という言葉がたくさん出てきます。2章の「イエスの誕生」では、野宿をしている羊飼いたちの上に主の天使が現れ、また天の大軍が加わって、神を賛美して次のように言います。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
 地には平和、御心に適う人にあれ。」[ルカ2:14]

 また、福音書の終わりで復活したイエス様が弟子たちに現われる場面では、イエス様が弟子たちの真ん中に立って次のように言われます。

「あなたがたに平和があるように」[ルカ24:36]

 「平和」とは、単に戦争がない状態というだけではなく、神様の御旨がすみずみまでゆきとどき、すべての命が輝いて幸せな状態のことです。しかし今日の福音を読むと、「平和」とはまったく反対の状況が書かれているようです。今日の福音には、次のようなイエス様の激しい言葉が記されています。

 わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。[ルカ12:51]

 今日の福音の最初には、わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。[ルカ12:49]と書かれていますが、「ルカによる福音書」の中で、「火」について述べているのは三箇所です。一つは、洗礼者ヨハネが、教えを述べる場面です。

 わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。[ルカ3:16]

 聖霊は神様の力であり、洗礼を受ける人たちは、神様の力を火として自分たちの心にいただくということです。また一方で、洗礼者ヨハネは、次のようにも話しています。悪いものをすべて燃やしてしまうというイメージです。

 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。[ルカ3:9]

 (その方は)手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。[ルカ3:17]

 二つめは、イエス様がサマリア人の村で歓迎されなかった場面です。その様子を見ていた弟子のヤコブとヨハネは、イエス様に対して次のように言っています。

「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」(ルカ9:54) 

 ここでも、火は全ての悪を滅ぼす神の裁きというイメージです。

 そして三つめ、今日の福音では、イエス様御自身の言葉として、以下のように記されています。

 わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。[ルカ12:49]

 この火は、「悪を滅ぼす神の裁きの火」とは全く違うのです。それはたとえば、聖霊降臨の場面に描かれている「炎」のようなものだといえるでしょう。

 一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせる
 ままに、ほかの国々の言葉で話しだした。[使徒言行録2:1~4]

 イエス様の霊、つまり、神の愛と命を受け入れる人の心には、福音の火が燃えているのです。全世界の人が、この福音の火を受け入れてほしいというイエス様の思いが、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」[ルカ12:49]という表現にあらわれています。イエス様は、地上に聖霊をもたらすために来たのです。

 その後に、「洗礼」という言葉が出てきます。

 わたしには受けねばならない洗礼がある。[ルカ12:50

 これは、私たちが知っている洗礼式のようなものではありません。ここでの洗礼とは、水の中に入ることによって水から強い力を受けて圧迫され責められるということ、つまり、イエス様が御自分の受難と死を通してまでも、私たちに聖霊を伝えたかったということを表しています。聖霊を伝えようとすれば、世の中から大きな圧力や迫害を受けることが避けられないのです。

 イエス様は今日の福音で「分裂」[ルカ12:51]という言葉を使っていますが、これは、聖霊によってもたらされる新しい神との関係は、これまでの人間関係に影響を与えたり衝突をもたらしたりすることがあるということです。
兄弟姉妹が集まる教会は、一致がないと成り立ちません。今日の福音で言われている分裂、対立の例をみてください。

 父は子と、子は父と、
 母は娘と、娘は母と、
 しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
 対立して分かれる。
               (ルカ12:53)

 兄弟どうしではなく、「父と子」「母と娘」「しゅうとめと嫁」というように、世代間の対立として表現されています。これはつまり、古い世代は新しい世代のことが理解できないという意味です。古い世代というのは、新しい福音を受け入れることが難しい人々のことであり、世代の異なる家族の中で分裂が生まれるということになります。
このイエス様の言葉は、旧約聖書の「ミカ書」(7:6)をふまえています。

 息子は父を侮り
 娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。
 人の敵はその家の者だ。

 敵は外側にいるのではなく、自分を否定する人は、自分のもっとも親しい人だということが書かれています。古い世代に属する人とはは、イエス様がもたらす福音と新しい生き方がどうしても受け入れられない人のことであり、イエス様を受け入れた身近な人との間に分裂が起こってしまうのです。
 この世の価値観が全てだと信じ、過去を大切にして今まで通りの暮らしを続け、変化を望まないという人たちは、イエス様の聖霊がもたらす新しい価値観と生き方を全く受け入れることができません。今日の福音のページは、そのことをはっきりと伝えています。

C年年間第19主日(2016.8.7.)

C年年間第19主日 ルカによる福音書12:32〜48

私たちが「全能永遠の神」「いと高き神」としてほめたたえている神は、実際にはしもべのように、私たちひとりひとりの人生を支えてくださっているのです。



今日の福音朗読は長いですが、ポイントは四つです。順にお話ししましょう。


小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる[ルカ12:32]

 最初にイエス様が言っているのは、「神の国はすでにこの地上に存在している」ということです。それはすなわち神の御計画であり、神の望んでいらっしゃる世界のことです。神の国は広く大きいのですが、イエス様は御自分に従っている人たちを見て「小さな群れ」と感じています。ここで使われている「小さな」という単語はギリシャ語では“ミクロン”といい、非常に小さいものを表します。今でも長さの単位として使われ、「1ミクロン」が「1ミリの1000分の1」を表すことからもわかるでしょう。ここでイエス様が言っているのは、神の国は偉大であること、神の国は命そのものであると同時に宇宙のすべてであるということです。
 それに比べたら、福音を生きることによって偉大な神の国を実現しようとしている人たちは、本当に小さくて力のないグループであるということをイエス様は言おうとしています。大きな神の国と、神の国の実現のためにイエス様に従おうとしている人たちとの対比です。 イエス様がこのような話をするのは、神の国はまず、愛を実践しようとする人の心の中に生まれ、その人の愛の行いのうちに神の国が実現されるからです。


自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。[ルカ12:33]

 神の国が実現するために欠かせない条件を、イエス様はこのように述べています。私たちの生活を支える財産、仕事、家、お金などは私たちがこの世で暮らしていくために必要なものです。このようなものを手に入れることに一生懸命になるあまり、私たちはお金のことばかり考えてしまいがちです。イエス様はあなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ[ルカ12:34]と言っています。
 またイエス様は、尽きることのない富を天に積みなさい[ルカ12:33]とも言っています。この世で富を積まなくてもいいのです。この世で富を積んでも役に立たないばかりか、盗まれたり虫が食い荒らしたりする心配が出てきます。先週の福音にあったように、死後の世界に持っていくこともできません。私たちは、目の前にある日常を支えるためのお金や物を中心に考えてしまうことがありますが、人生はそのように小さなものではないのです。私たちの人生は、お金や物といった物質主義的なものを上回る存在です。私たちの命は、肉体的な死を迎えた後も続きます。私たちはもっと広い視野で世界を見て、深く物事を受けとめるべきです。この世の富だけを考えて生きていれば、物やお金をすべて手放さなければならない自らの死に際して、大きな不安が押し寄せてくるのは当然です。だから、自分が持っている物は、それを必要な人に分け与えるように、イエス様は言っているのです。まさに、先週の福音「愚かな金持ち」のたとえで、自分のために富を積んでも、神の前で豊かにならない者はこのとおりだ[ルカ12:21]と言っていたのと同じです。
 神の国の実現のための第一の条件は、ひとりひとりが福音を生きて愛の行いをすることです。自分の心の中に神の国を作ることによって、神の国に属する者となり、財産やお金に執着しないということが大切です。


腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい[ルカ12:35]

 これは、しもべとして生きる、ということを表すイメージです。これが、神の国を実現するために必要な、もう一つの条件です。
 当時の人たちは、裾が足首に届くような丈の長い服を着ていました。家の中にいる分にはいいのですが、身体を動かす労働をしたり、旅をしたりするのには不便でした。ですから、身体を動かすときには、裾をたくしあげて帯に入れていたのです。これは、しもべのように、いつでも人に奉仕をするための準備をしていなさいという意味になります。24時間いつでも、求められたら無条件で人を助け奉仕をする姿勢、そのような精神で生きなさいとイエス様は言っています。イエス様に従う人の特徴ですぐに目につくことのひとつは、他者を助けたりお世話したりしようとする愛徳の行いだといえます。
 もう一つここで言われているのはともし火をともしていなさい[ルカ12:35]というイメージです。これは、「出エジプト記」40章に出てくるものです。エジプトを脱出して荒れ野をさまよっていたイスラエルの民と一緒につねにあったのは、神の命令によって作られた臨在の幕屋というテントの礼拝所でした。そこには燭台が置かれ、昼も夜も主の御前にともし火がともされていました。「ここに神が存在し、私たちとともに生きている」ということを、みんなに意識させるためのともし火です。
 今日の福音でイエス様が言っているのは、他者に奉仕することで愛を生きようとする信者のそばには、神が存在しているということです。ともし火をともしていなさい[ルカ12:35]という言葉は、神の存在をあかししながら生きて、周りの人たちにもそのともし火が見えるようにしなさいということになります。


主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい[ルカ12:36]

 興味深いことですが、イエス様は神の国のたとえとして、今で言うところの「結婚式の披露宴」をよく使います。イメージとして、「花婿」は神様(イエス様御自身)、「花嫁」はイスラエルの民(私たち人類)になります。このような表現は、偶然ではありません。私たちは、イエス様が来るときにいつも「待っている」姿勢でなければいけないということです。そして主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ[ルカ12:37]とあります。主人が婚宴から帰って来るのを待っていたしもべたちは、主人が食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれるというのです。普通、主人がしもべに給仕をするということはないのですが、神様御自身が私たちを給仕してくださるという不思議なことが書いてあります。
 この不思議なことの例を具体的にあげるとしたら、私たちのこの日曜日のミサだといえます。私たちがミサにあずかる時、ここにはイエス様の宴が用意されています。私たちはイエス様の愛と命の宴に招かれているのです。ここで私たちの給仕をつとめてくださるのは、イエス・キリスト御自身です。私たちが「全能永遠の神」「いと高き神」としてほめたたえている神は、実際にはしもべのように、私たちひとりひとりの人生を支えてくださっているのです。そして、私たちの幸せのために、給仕として何でもしようとしてくださっているのです。
 イエス様は、あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい[マタイ20:28]と語り、イエス様御自身が仕えられるためではなく仕えるために[マタイ20:28]来たのだと話しています。私たちも、ミサすなわち神のよろこびの宴にあずかり、イエス様に給仕していただくことによって、他者のために奉仕し、神の国を実現するものとなることができますように。

C年年間第18主日(2016.7.31.)

C年年間第18主日 ルカによる福音書12:13〜21


自分がすでに与えられている物に対し、感謝して喜ぶことができないこの金持ちのことを、神は「馬鹿者」と言っているのです。


 今日の福音は、私たちがふだん考えている「お金持ちになりたい」「財産を増やしたい」というような願望に対する皮肉として理解すべきものです。イエス様は福音書の中で、たびたびこのように皮肉をこめた言い方をされています。
 群衆の一人が先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください[ルカ12:13]と言っていますが、親が亡くなった時に子どもたちが遺産をどう分けるかということは、昔も今もよく問題になる話です。それまで仲が良かった兄弟が親の遺産のことで争うようになったというようなことも、よく聞きます。兄弟でうまく話し合って円満に遺産を分けることができればいいのですが、それぞれに「自分はもっと多くの財産をもらうべき」という考えが起こり、うまくいかないことが多いようです。


 イエス様は、今日の福音の直前、群衆に向かって「何をたよるべきか」について話をしていました。偽善に気をつけ、神をおそれるべきであること、イエス様の仲間であることを言い表し、聖霊を信じるべきであることを話したところで、群衆の中の一人がイエス様の話をさえぎって話しかけたのが、今日の場面です。
 この人がたよりにしようとしているのは、財産です。この人は、親からもらう遺産をたよりとし、その上に自分の人生を築いていこうとしているのです。当時の決まりでは、長男が三分の二を相続し、弟が残りをもらうことになっていましたが、おそらくこの人の兄は決まり通りの財産を渡そうとしなかったのでしょう。それでこの人は「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」とイエス様に頼んでいるのです。
 イエス様はこの頼みに対して直接答えず、ただ、どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである[ルカ12:15]と言っています。これは、「貪欲に気をつけなさい。すべての原因はそこにある」ということです。


 兄弟と争って「遺産を分けてほしい」というのは、自分のために富を蓄えたいということです。その願望は、貪欲とエゴイズムの結果です。このような考え方で生きることは、神に対しても人々に対しても自分を閉ざすことになります。周囲に壁を作り、自分一人だけの狭い世界に閉じこもって、神とも人とも愛でつながることができない状態です。
 富への執着がある人は、エゴイストだといえます。基本的に、自分の持っているものを他者と分かち合うことができる人は、一人でお金をためこむということをしません。お金をためこんでいる人は、エゴイズムの慢性病にかかっているといってもいいのではないでしょうか。
 自分の死んだ後で子どもが苦労しないようにと思い、子どもに財産をたくさん残すことができたらいいと思っている人は多いかもしれません。しかしその場合、遺産とともにエゴイズムまで子どもに与えてしまう可能性があるのではないでしょうか。お金をたくさんためて残すという考え方と生き方を、親が子どもに示すことになるからです。
 今日の第二朗読には貪欲は偶像礼拝にほかならない[コロサイ3:5]と書かれています。どんなに信心深く真面目なキリスト者でも、お金への執着があるならば、信者ではないと断言できます。なぜならば、神は愛であり、愛は分かち合うことだからです。「お金持ちになりたい」という考え方と生き方は、真正面から神を否定することになるのです。


 イエス様は、愚かな金持ちのたとえ話をされます。この金持ちは、どうしよう。作物をしまっておく場所がない[ルカ12:17]と、自分の富をたくわえる方法について知恵をしぼって一所懸命考えます。他の考えは、一切浮かんでこないのです。このたとえ話を読めば、この金持ちがたったひとりで生活していたわけではないと誰もが思うでしょう。金持ちには、妻や子どもなどの家族、自分のために働いてくれる雇い人、友人、親戚や近所の人がいたはずです。でも、そのような話題はいっさい出てきません。さらに財産を増やし、さらに豊かになりたいというように、自分のことしか考えることができないのです。他者と分かち合うという発想はなく、自分のこと、穀物や財産をどのようにしまっておくかということばかりを考えていたのが、このたとえ話の金持ちです。
 神はこの金持ちに対して愚かな者よ[ルカ12:20]と呼びかけています。ややソフトな日本語に訳されていますが、元のギリシャ語をみると、はっきり「馬鹿者」と書かれています。この人なりに一所懸命考えているのですが、この人は神の目から見れば「馬鹿者」なのです。神はさらに「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われます。
 この金持ちが、この夜死ぬとしたら、いったい何のために穀物や財産を蓄えたのでしょうか。自分がすでに与えられている物に対し、感謝して喜ぶことができないこの金持ちのことを、神は「馬鹿者」と言っているのです。


 この金持ちのたとえ話は極端に感じられるかもしれませんが、私たち自身をふりかえって考えてみてください。「財産を増やしたい」とか「親はどれくらい遺産を残してくれるだろうか」とか「宝くじが当たればいいなあ」とか考えることがあります。私たちはその時、神様の目から見れば「馬鹿者」になっているのです。イエス様は今日の福音で、私たちのうちにある貪欲とエゴイズムについて、皮肉をこめて話をされているのです。


 しめくくりとして、穀物やお金などこの世の現実的な富ではなく、私たち人間が何を蓄えるべきかが、最後の一文に記されています。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ[ルカ12:21]といあるように、神様の前で豊かになることこそが、人生における本当の豊かさなのです。