いのちのいずみ Ⅱ 〈月曜日の福音〉

イエス・キリストの福音を伝えます

年間第29月曜日(2020.10.19)「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

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 私が神父になって一年目のことです。一生懸命働いて建てたばかりの立派な家で暮らし始めたのに、最初の夜を過ごしただけで次の朝は死んでいた方の葬儀をすることになりました。私にとって、イエス様のたとえ話が現実となったと感じた時でした。

 自分や家族の将来のために、財産を蓄えたり豪華な家を建てたりすることは、賢いやり方とはいえません。どんなに努力をしても、絶対的な安心と安全は存在しないからです。大切なことは、家や財産よりも、天の御父からいただいた命と体であり、イエス様からいただいたよい知らせとしての福音に照らされて生きるということではないでしょうか。未来は、神の御手の中にだけ存在しています。それでも、自分だけが富を得たり、他の人を犠牲にしても豊かになりたいと思ったりしてしまうのが、欲とエゴイズムに支配された私達人間です。

 4世紀のミラノの司教だった聖アンブロジウスは、「あなたが金持ちであるならば、それは他の人から盗んでいるからだ。あなたが盗んでいないなら、あなたのお父さんか、そのお父さんが他の人から盗んでいるからだ」という意味のことを言っています。つまり、すべてを神様からいただいているひとりひとりの人間が、他の人よりも金持ちであるはずはないのです。すべてのものは、すべての人のためにあり、お互いに分かち合うために神様からいただいているからです。

 自分の子どもには、たくさんの財産を残すよりも、豊かな知恵と人間性、信仰を伝えるべきでしょう。旧約聖書や歴史の本を読めばわかるように、ユダヤ人は土地や財産などを繰り返し奪われてきたので、子どもには物質的な財産を残すよりも教育にお金を使うようになりました。子どもが身につけた知識や教養、信仰は、誰も奪うことができないからです。

 私達は神の国で永遠に幸せに生きることができるのに、他の人より豊かになりたいという自分の欲に負けて、地獄の中で生きているといえます。人生の目的は、立派なお墓ではありません。

 何の貯金もなく、お金の価値もわからない赤ちゃんは、親の愛だけに生かされて毎日のんびりと幸せに暮らしています。私達を本当に生かしているのは天の御父の愛だということに気付くことのできない欲深い大人は、駄目になった子どもだといえるかもしれません。

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ルカによる福音書12:13〜21

そのとき、群衆の一人がイエスに言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

年間第28月曜日(2020.10.12)「ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。

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 以前、日本語で「外人」という言葉は失礼にあたるので、かわりに「外国人」を使うようと言われました。でもよく考えてみると、どちらにしても「外の人」という意味では同じなのではないでしょうか。

 私達はみな神の前に同じ人間であるはずなのに「外の人」を受け入れることができず、中国政府がウイグル族チベット族を弾圧したり、アメリカとメキシコの国境に沿って壁が作られたりしています。ビルマロヒンギャやヨーロッパに向かうアフリカの人々など、難民となって苦しむ人も大勢います。最近では、黒人に対する警察の暴力に反対する運動がアメリカで起こって大きな注目を集めていますが、日本国内でも特定の国を出身地とする人々に対する激しいヘイトスピーチが問題となっています。「外の人」であるというだけで他者を排除しようとするこのような「よこしまな」状況は、今も続いているのが現実です。

 イエス様はユダヤ人として生まれましたが、自分の国や民族だけを愛することはありませんでした。ユダヤ人は神から特別に選ばれた民であると考える人が多かった中で、イエス様はすべての人を愛していました。今もイエス様は私達ひとりひとりを愛してくださっています。

 イエス様が他民族の話をする時は、つねに良い例として話されています。イエス様のたとえ話で、強盗におそわれて瀕死の人を助けたのは、ユダヤ人が相手にしていなかったサマリア人でした。他にも、部下を治してくれると信じたローマの百人隊長、知恵を求めてソロモンを訪ねた南の国の女王、ヨナの説教を聞いて回心したニネベの人々などについて、イエス様は話されています。自分の民族や信仰をあきらかにする時に、他民族や他の文化、宗教を見くだす必要はまったくないのです。しかし、「外の人」について良い話ばかりをするイエス様は、ユダヤ人の一部の愛国主義者にとっては憎むべき存在でした。

 天のお父さんの目で見れば、すべての人は神の子どもであり、人類全体がひとつの家族であり、神の家族なのです。天のお父さんはこの地球を作り、さまざまな自然や人間を作りましたが、国境は作っていません。「外の人」も作っていません。国境、人と人との壁を作ったのは、私達人間です。「外の人」という考え方を作ったのも私達です。

 ユダヤ人の両親のもとにドイツで生まれたアインシュタインは、国籍を問われた時に「人間」と答えたそうです。パキスタンアフガニスタンで長く医療活動に従事し、昨年銃撃を受けて亡くなった医師の中村哲さんは日本人ですが、本当の人間であると言ったほうがよいでしょう。

エス様はすべての人に対して、本当の人間として生きるように招いています。私達も回心して本当の人間として生きることができますように。

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ルカによる福音書11・29-32
 

   そのとき、群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

年間第27月曜日(2020.10.5)「行って、あなたも同じようにしなさい。」

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ルカによる福音書10・27〜30

 かつて私達の住む地球が宇宙の中心とされ、太陽やその他の天体は地球の周りを回っていると考えられていました。コペルニクスガリレオが地動説をとなえ、それが科学的に正しいことが証明されましたが、私達人間の自己中心的な考え方は、今も変わっていないのかもしれません。

 私達の頭の中ではつねに自分が中心で、他者を見ると自分からどれくらいの距離があるのか知らず知らずのうちに計算しているようなところがあるのではないでしょうか。「隣人」という言葉を、文字通り距離的にも心理的にも「自分に近い人」という意味でしか考えられない人が多いように思います。

 イエス様はこのような考え方をひっくり返しました。あなたを必要とする人こそが隣人であり、あなたは誰に対しても進んで近づいていきなさい、あなたがいただいている能力、体力、時間、財産などすべてのものを、それを必要としている弱い立場の人のために使いなさい、とイエス様は言っています。

 そして、複雑な現代社会に生きる私達が、まず近づかなければならないのは、自分の家族なのかもしれません。私達は、一緒に暮らしている両親や配偶者、兄弟姉妹や子どもたちにまず近づき、隣人となる必要があるのです。インターネットが普及し、いつでもどこでも仕事をするようになり、ひとりひとりが携帯電話やパソコンを持って、家族間のやりとりにもメールやSNSが使われるような今、一緒に暮らしている家族との間が最も疎遠になっているということはないでしょうか。日々の暮らしの中で、自分の家族が本当の意味での隣人になっているか、考えてみてください。私達が他者の隣人となるのは、今日のたとえ話にあるように、道端に人が倒れているというような特別な場合だけではないのです。日常の生活で、いつもあなたのすぐ近くにいて困っている人の声に耳を傾けることを意識してみましょう。困っている人、助けを求めている人は、世界中のあちこちにいるのです。

 自分が困った時、一番の隣人となって助けてくださるのは救い主であるイエス様です。私達もイエス様と同じように行動し、誰に対しても隣人となって助けたり手伝ったりすることができますように。

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  そのとき、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

年間第26月曜日(2020.9.28.)「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

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高い山に登る時は、一番遅い人のペースに合わせて登るのが普通です。山登りではそれができるのに、私達の社会ではなぜそれができないのでしょうか。競争社会の中で一番になることばかりを目指せば、他の人を下に見て蹴落とすことにつながってしまうでしょう。

 「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と言ったイエス様は、「だれがいちばん偉いだろうか」と議論していた弟子たちとはまったく違うまなざしで世界を見ていました。ベツレヘムのエッサイには8人の子どもがいましたが、その中で王として選ばれ油を注がれたのは、長男ではなく末っ子のダビデです。聖書を読めば、神様が選ぶのは一番すぐれた人ではないということがわかるでしょう。普通に考えたらふさわしくないと思われる人を、神様は選ぶのです。

 神の国では、誰も末席にすわることはできません。末席には、すでにイエス様がすわっているからです。今日の福音では「一人の子供」と書かれていますが、イエス様が大切にしたのは子供だけではなく、病人や障害者、女性、ホームレス、外国人、高齢者、失業者、貧しい人、一人で子育てをしている人、差別されている人など、力を持たず弱い立場に立たされているすべての人たちです。

  神様の価値観は、この世の価値観とは違うのです。

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ルカによる福音9:4650

そのとき、弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」

 そこで、ヨハネが言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである。」

聖マタイ福音記者(祝)(2020.9.21.)「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

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ヨナはニネベの人たちに神の言葉を告げ、ニネベの人たちを回心に導きました。しかしヨナ自身は回心できたでしょうか。

自分が正しい人間だと思い込んでいる人は、なかなか回心することができません。「ヨナ」はヘブライ語で「鳩」の意味です。自分自身を鳩のように白くて清いものだと認識している人は、回心を必要としていないのです。自分が正しい人間だと思い込んでいる人は、自分が変わる必要などないと思っています。それはつまり、神のいつくしみを必要としていないということなってしまいます。

徴税人だったマタイは、自分自身を罪人だと思っていました。だからイエス様から声をかけられた時、すぐに従うことができたのです。

放蕩息子のたとえを思い出してください。放蕩をつくして帰ってきた弟は回心しましたが、ずっと父と一緒に生活していた兄は回心することができませんでした。

本当に回心が必要なのは、自分は大丈夫、自分こそが正しいと思っている人です。神の前で正しい人はひとりもいないからです。

 

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マタイによる福音書9:9〜13
そのとき、イエス
通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。エスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。エスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

十字架称賛(2020.9.14.)「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」

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 人間が神と出会うきっかけとなったのは、天と地を結ぶものとしてはじめてかけられたヤコブのはしごでした。福音という新たな命によって、そのはしごを強く確かなものとしたのはイエスの十字架です。

 イエスの十字架は、ヤコブだけではなくすべての人を救い、私達ひとりひとりを神の愛に招き、永遠の命への道を開きました。それは、逃走中の罪人を神に出会わせ、暗闇で嘆き震えている人に明日への希望を与えるものです。イエスの十字架は人類を死の淵から引っぱり上げ、一緒に十字架につけられた犯罪人だけではなく、すべての人を神の国へ力強く導いています。

 私達の罪のために十字架に上げられたイエスは、罪やエゴイズムでがんじがらめになっている私達のところまで降りてきて、その釘の跡のある手をのばし、私達の手をしっかりと握ってくれます。槍で貫かれたその脇腹を通して、自らを捧げつくす愛、神のいつくしみと赦しを私達に今も示しつづけています。

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ルカによる福音書3:13~17

 そのとき、イエスはニコデモに言われた。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」

年間第23月曜日(2020.9.7.)「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか」

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 目の前のひとりだけではなく、すべての人の救いを願うイエス様は、右手の萎えた人をいやすのと同時に、自分に反感を持つ律法学者やファリサイ派の人たちを凝り固まった考えから解放しようとされました。神様が私達に対して本当に望んでいるのは、おきてとしての安息日を守ることそのものではありません。私達を愛してくださった神様と同じように、私達も他の人々を愛し、実際に愛の行いをすること。安息日を守ることの本当の意味は、神様に従うこと、すなわち神様と同じように人々を愛することです。

 

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ルカによる福音書6:6-11

ある安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエス安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは彼らの考えを見抜いて、手の萎えた人に、「立って、真ん中に出なさい」と言われた。その人は身を起こして立った。そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」そして、彼ら一同を見回して、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。言われたようにすると、手は元どおりになった。ところが、彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った。